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ストレス手帳

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◆朝日新聞連載エッセイ「ストレス手帳」

歩行中にも発作的に居眠り

朝日新聞朝刊 1998.11.7


 寒くなると朝、起きづらい。昼食後一時間くらいで眠くなる。だれもが体験する眠気だ。しかしお見合いとか、大事な商談の最中に居眠りをしたら台無しだ。こうした居眠りには睡眠不足が原因ではない場合がある。
 二十二歳のある男性は、車を運転していて赤信号になって居眠りを始めた。三回目の青でようやく目覚めたそうだが、渋滞を引き起こしていた。彼はのんきな性格であっけらかんとしている。大声で笑うと、ガクンとひざの力が抜けることがある。
 中学のころから居眠りに悩んでいた。周囲は変人扱いし、怠け者にみられた。人はいいし、仕事にも根気があるのに、肝心なところで力が抜ける。上司の勧めでいやいや精神科を受診した。
 睡眠ポリグラフ検査では、入眠と同時に通常は出現しないレム睡眠を記録するなどでナルコプレシーと診断された。『眠り姫』もそうだったという二千人に一人の病気で、緊張してストレスが高まるときに発作的に眠なる。歩いていても突然眠りこけてしまうこともある。認知されて百二十年ほどたつ病気だ。
 今は亡きリバー・フェニックスは『マイ・プライベート・アイダホ』(1991年)で、ナルコプレシーを演じた。自分を捨てた母を慕う男娼(だんしょう)の役で、まことに気の毒で痛々しかった。共演は『スピード』で一躍大スターの仲間入りをしたキアヌ・リーブスだ。
 アイダホの景色が入眠時幻覚の中で、一挙にローマに飛んだり、またアイダホの田舎に戻ったりする。夢とも幻ともつかぬ世界を追体験しているような映画だった。
 ナルコプレシーは過眠症群に含まれる。過眠症の大部分は中高年に多い睡眠時無呼吸症候群だが、若年の場合はこの病気の可能性もある。
 二十二歳の青年は、メチルフェニデートという一種の目覚め薬を飲み始めて、居眠り発作が消え、職場での評判は回復した。



共同作業の喜び、患者に自信

朝日新聞朝刊 1998.11.14


 精神病院では、喧噪(けんそう)と隔絶された静かな時間がゆったりと流れている。街で文化が解体されていくなか、クリスマス会、もちつき、たこ揚げ、ひな祭り、お花見、七夕、運動会、紅葉見物、誕生会などの年間行事が組まれ、俳句や茶道や書道をたしなむ人も多い。
 国内には三十六万の精神病床がある。約六割を精神病者が占める。その倍以上が外来通院し、デイケアや作業所などで過ごす。三十年で六倍に増えたとされるうつ病と違い、精神病の発病率はほぼ〇.八五%で一定している。
 精神病者は繊細で傷つきやすい。素直で引っ込み思案で、ストレスに対して最も弱い。
 オーストラリア映画に『ハーモニー』(1996年)というとても愉快な作品がある。「もっと人生経験を積みたい」と大学を中退した青年が精神病院で演劇を指導する。発表会の出し物はモーツァルトの歌劇「コシ・ファン・トゥッテ」。
 患者は個性にあふれすぎて、なかなか統率がとれない。あげくに自分のいる側の社会の奇妙さを患者に教えられる。イライラしてさじを投げようとするが、その時には世間にすれていない素直さが患者の信頼を集めていて、思いとどまる。劇が仕上がるにつれて不調和が調和に変わっていく。
 共同で一つの物を作り上げる喜びを知り、自己の行動が評価されることを通じて患者は自信を回復し、自発性や能動性を取り戻す。『ハーモニー』は、一日も早く社会復帰できるように努める精神病院の活動に、ボランティアが加わる新たな一ページを描いた作品だ。
出演者や制作スタッフが紹介された後、おまけの一コマがある。見てのお楽しみだが、「気持ちを高揚させるワーグナーの音楽は精神病院には似合わない」とでもいいたそうな場面だ。よくわかった監督の作品だと感心した。


ポストを巡る自己愛の病理

朝日新聞朝刊 1998.11.21


 妹が先に結婚したり、弟が社長になったりすると、姉や長男のプライド、つまり自己愛が傷付く。嫉妬が怨念に変わり、復しゅう心に燃え出すと「お家騒動」が始まる。
 これが会社の人事がらみになると、揚げ足取り、はてはスキャンダル探しまで、権謀術策が講じられ、内紛すら起きて、組織の生産的エネルギーが破壊される。ローマ帝国はこうして滅んだという見方がある。
 仕返しなどの行動に走れない人は、お酒やギャンブルにおぼれることがある。いずれもストレス対処がへたで、こういう人が心気症やうつ状態になって、精神科を受診するケースがある。実力よりも自己評価の方が高すぎるといった自己愛の病理が背景にあるので、治療は結構大変である。
 人の心を200年以上にわたって和ませ続けている天才モーツァルト。その才能に嫉妬し、彼の死後、二流の作曲家サリエリが精神病院の片隅で述懐する場面から始まる映画『アマデウス』(1984年)は、ジェラシーを扱った作品としても注目される。
 モーツァルトは、軽薄なおしゃべりと下品な笑いを連発し、家庭を顧みないで酒も女性も好む遊び人として描かれている。そんな人物が、素晴らしいハーモニーの協奏曲や歌劇を次々と発表する。
 寡作で、さえない作品しか出せないまじめなサリエリは、プライドが邪魔して脱帽できないまま、嫉妬し続ける。サリエリの述懐は、モーツァルトに「レクイエム」の作曲を依頼し、疲弊させて死に追いやったという内容だったが、その真偽はわからない。
 現実の社会では、サリエリとモーツァルトほど才能に開きがなくても、後輩が先輩を追い越して上のポストに就くことがある。
 「たかがポストを巡る贅沢な悩み」とも言えるが、それをぜいたくと感じられないところに、現代社会の病理が潜んでいるようでもある。



知的障害者の純朴さ・実直さ

朝日新聞朝刊 1998.11.28


 生まれつきの障害のある子供のいる家族のストレスは並大抵ではない。身体異常に加えて精神発育遅滞(知的障害)があるダウン症などの親は、一度は親子心中を考えてしまうほど、深刻な現実を重ねる。
 健康だった人が脳卒中で倒れ、半身まひになるなどの中途障害も含め、いったん障害を抱えると社会生活上の困難は急に大きくなる。
 映画『ギルバート・グレイプ』(1993年)で、レオナルド・ディカプリオは知的障害の少年を演じている。
主演の兄役は、彼が今も兄貴分として慕っているジョニー・デップだ。レオ君は、高いところが好きで、町の給水タンクに登って何度も大騒ぎになり、ついに警官に身柄を拘束される。
 夫の自殺以来の過食で「鯨のような巨体」になった母親が7年ぶりに自宅を出て、「私の子を返せー」と警察に怒鳴り込む。町の人たちの好奇の目にさらされながら、一家はレオ君を連れ帰る。
 兄は妹たちと一緒に、そんな弟や母を「いつも悲しいのか嬉しいのかわからない表情」で支え続ける。
 現状では、知能指数(IQ)80以下は病気とされ、60以下は知的障害とされる。20下がるごとに、軽度、中等度、重度と区分けされる。
 中等度の知的障害とみられるレオ君が引き起こす「事件」といえば、タンク登り騒動ぐらい。捜査当局が手を焼く贈収賄や脱税などの「知能犯」とは根本的に異なる。彼のみせる人なつっこさや優しさに比べて、IQの高い人は得てして利己的で冷たい。
 『ギルバート・グレイプ』には、障害者が社会で生きることの意味、家族の絆(きずな)、母の存在、兄弟愛、周囲の支えのたいせつさなど、多くを教えられる。
 巧妙さより純朴。かけひきより実直。微妙に揺れる人の心を、優しさの方に導いてくれる映画だった。

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