1998年より60回にわたり連載していたエッセイです。
朝日新聞朝刊 1998.09.12
人間が一生に体験するストレスで最大のものは、最愛の人との死別で、ストレス指数は百点。最高点がついている。離婚が七十三点。なんとなくわかる。結婚は五十点だが、さてどう解釈すべきか考え込んでしまう。
ロバート・レッドフォード監督の映画『普通の人々』は、こころの病をかかえる家族の苦悩をリアルに描いている。1980年にオスカーを受賞した。
長男の事故死によって、次男は結婚の意味や親子の愛について考え始める。憂うつな日々を送り、自殺未遂もする。家族とのさまざまな葛藤(かっとう)を経て、次男はこころの危機を乗り越えていく。さえない顔の精神科医が、ねばり強く次男の再生に取り組んでいた姿が印象的な作品だった。
米国では、かかりつけの精神科医がいることは、ステータスシンボルであると言われて久しい。最近、わが国でもやっと街のあちこちでメンタルクリニックの看板をみかけるようになった。
しかし、現代人が精神科に相談に訪れるまでには、まだ相当な決意が必要なようだ。祈とう師を訪ね、滝修行をして、果ては牧場生活を送ってお金と時間を浪費し、やっと精神科の門をたたいたという例もある。
ハイテクがあふれる文化生活を送っていても、こころの病に対する考え方は、いまだに近代化とはほど遠いところにある。もちろん、われわれ精神科医や、精神保健行政が、役割を果たし得なかった面も影響していそうだ。
精神科医になって二十余年、こころの病に悩む方々に接してきた。患者さんから多くのことを学び、最近では世相の動向まで患者さんを通して教えられているという実感を強めている。
このコラムでは、さまざまなこころの病の例を、匿名の患者さんと映画の登場人物たちにみながら、紹介していく。現代人のメンタルヘルスに役立つ事を期待している。
朝日新聞朝刊 1998.09.19
異性、金銭、地位、健康の四つが、分裂病再発のきっかけになる。むかし江熊要一という精神科医がこう主張し、後に「四つ葉のクローバー」と例えられた。
四つ葉のいずれにも無関心という人は少ない。すべてに満たされている人も少なそうだ。人の世の不幸は、失恋、貧困、失業や左遷、病気が原因ということらしい。
戦争、恐慌、飢饉(ききん)、大災害でも起きれば、クローバーは一挙に吹き飛ぶ。職業があり、恋人や配偶者がいて、ささやかな蓄えがあり、検診でひっかからない程度に健康であれば、それだけでものすごく幸せなのである。
その代価として、仕事のノルマに追われ、家庭で悩み、多くのストレスに囲まれて生きなければならないらしい。
いまをときめくレオナルド・ディカプリオが出演した映画に『マイ・ルーム』(1996年)がある。レオ君は十七歳の不良少年役だ。
ダイアン・キートン演ずる叔母が白血病になる。叔母は寝たきりの父親と、その妹とみられる痴呆(ちほう)ぎみの老人の面倒をみている。自分一人の命ではないと思っている。
レオ君の口うるさい母親役をメリル・ストリープが演ずる。キートンの妹役でもある。姉とは親の面倒をみることなどを巡って確執がある。しかし、妹は白血病治療のため骨髄提供者候補としてレオ君を連れ、二十年ぶりに姉に会いにいく。
レオ君は叔母と触れあい、ただの不良少年じゃないところをみせる。ストリープもただの口うるさい女ではなかった。一つの病気が家族の再生を呼び、一人ひとりが幸せを感じる気持ちを取り戻す過程を描いた作品だ。
白血病の悲惨さは壮絶だ。骨髄移植も相当な苦痛を伴うので、移植チームに精神科医が関与することもある。
無一文になっても体は残る。まず大切なクローバーは健康だ。幸せは遊んで暮らせる楽園では見つからない。
朝日新聞朝刊 1998.09.26
大企業の営業不振、金融破たん、史上最低の金利。出口の見えない不況。不安指数がかつてなく高まっている。
昨年の警察庁のまとめでは、自殺者は二万四千余人で、リストラや不況が関連した中高年の自殺が急増していると発表された。「なべ底不況」「円高不況」に続くピークを迎えようとしている。
恐慌を意味するパニックという言葉は、パニック障害という不安病の症状に使われる精神医学用語でもある。
ストレス指数でみると、解雇や失業は百点満点の四十七点、経済状態の変化は三十八点、借金やローンは三十点。合わせると軽く百点を超える。この不況は大変なストレスになっている。
不安は、漠然としたもの、失業や病気の心配など現実的なもの、さらに高所恐怖、飛行機恐怖や地震恐怖など特定の対象に限定されたものまで、実に様々である。繰り返し心をよぎる精神的な不安から、動悸(どうき)、息苦しさ、下痢、頻尿、手足のしびれなど身体を巻き込む不安まで、幅も広い。
ヒチコック監督の映画『めまい』は、高所恐怖症の元刑事が、容疑者を追跡中に同僚が墜落死して、高所恐怖が発症する場面から始まる。墜落の悪夢が反復され、少し高いところに上っただけで、めまいと悪夢が再現される。
外傷後ストレス障害(PTSD)として今ではよく知られるようになった病態だが、一九五八年にヒチコックがこれを題材に取り上げたのは、さすがサスペンスの巨匠と言われただけはある。
元刑事は探偵として雇われ、修道院の鐘楼から飛び降りる女性の自殺の目撃者に仕立てられる。これが妻殺しの偽装殺人だったことを暴こうと最後にはもう一度、鐘楼に上り高所恐怖を克服する。
恐怖症は、もっとも不安を感じやすい場所、避けている場所にあえて出向いて行かなければ乗り越えられない。教訓的な映画でもあった。
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