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ストレス手帳

銀幕 こころの旅

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◆朝日新聞連載エッセイ「ストレス手帳」

飛行機恐怖症「軟着陸」の方法

朝日新聞朝刊 1999.5.1


  空の旅は、事故率は低いとはいえ、いったん事故に遭遇すると致死率が高い。気流で揺れながらの着陸では、ベテランクルーでさえ車輪が地上をつかまえた瞬間に胸をなでおろすことがあるそうだ。
 飛行機で九州まで出張する予定だった三十代の営業マンは、直前にキャンセルし、上司から大目玉をくらった。三ヶ月前に出張の飛行機で、突然息苦しくなり、動悸(どうき)とめまいで気が遠くなりそうなパニック発作に襲われた。予期不安がつのって、恐怖に屈服してしまったのだ。
 映画『フレンチ・キッス』(1995年)で、メグ・ライアンは重度の飛行機恐怖症を演じた。パニック発作克服のためフライトシミュレーションに励むが、やはり発作が出て、非常ドアを開けて「地上」に転げ落ちてしまう。
 ところが婚約者の精神科医がパリに出張中にフランス娘と恋仲になって、電話で別れを告げられると、嫉妬(しっと)と怒りに燃えて飛行機に乗るはめになる。いよいよ発作が起きるのかと思いきや、隣に座ったひげ面のフランス男の巧みな話術に引き込まれ、気がついたら雲の上。ワインを飲まされて、着陸の際にもぐっすり眠っていた。
 パリ到着後の珍道中は見てのお楽しみだが、乗客の恐怖や希望とはまったく関係なく、飛行機は無事に飛ぶし、たまに落ちることもある。
 フランス男を演じたケビン・クラインは『遠い夜明け』(87年)で、南アフリカのアパルトヘイトに抗議する人々を取材する新聞記者を演じた。撃墜の危険を承知で、家族と共に軽飛行機で南アから脱出するまでが、ハラハラドキドキの連続だった。
 ヒチコックの『めまい』を書いた際にも紹介したように、怖いと思っている場所に挑戦するほかに、恐怖感を克服する方法はない。乗り物恐怖も地下鉄ぐらいだと患者さんと一緒に乗って行動療法が可能だが、飛行機となるとそう簡単にはいかない。





「クローン人間」夢より脅威

朝日新聞朝刊 1999.5.8


  癌(がん)細胞を破壊する遺伝子治療よりも、癌細胞のないクローン人間に取り換えた方が簡単かも知れない。肉体的個体が全く同一のクローン羊ドリーを誕生させたバイオテクノロジーの発展は、そう思わせる怖さも秘めている。
 映画『ブラジルから来た少年』(1978年)は、グレゴリー・ペック演ずる悪魔の医者が南米に潜伏し、ナチス再建をもくろんでヒトラーのクローンをつくろうという作品だった。一人の人間はこの世には一回しか存在しない。過去の人間がよみがえるのは自然の摂理に反する。米国ではクローン人間の研究禁止令が出ている。
 しかし、「体が幾つあっても足りない」とばやく現代のサラリーマンはときどき、会社にいってくれる「もう一人の自分」を思い描く。マイケル・キートンが建築現場の監督を演じる『クローンズ』(96年)は、そんな現代人の夢を描いた作品だ。
 働きに出たい奥さんの希望をかなえるため、キートンはクローンを作ってもらう。それでも家事や育児は大変だとわかって、さらに二番目のクローンを作り、自分はヨットやゴルフに出かける。ところが、クローン二人も自分たちが忙しいことに気づいて、クローンのクローンを作ってしまう。計四人の「私」が一人であることを装うのに苦労するドタバタ劇だった。
 本物はクローンにセックス禁止令を出すが、奥さんは同じ夫と思って枕(まくら)をともにする。クローンといえども自分ではないというのは、人間の尊厳にかかわる深刻な問題だ。 
   二十歳で特攻隊に散った息子が今も生きていたらという思いで悲嘆の毎日を送っている老婆がいる。時が消せない悲しみだ。心の病には、最愛の人と似ている人を見つけてそう信じたり、自分が何人にも分化していると思ったりする妄想がある。クローン人間が与えるストレスに比べると、この病にいかほどの脅威があると言えるだろうか。





自然との対話 家族のきずな

朝日新聞朝刊 1999.5.15


  モンタナ州ミズーラの小さな川の合流点。澄んだ風景の中で幼い兄弟は、長老派教会の牧師である父からフライ・フィッシングを伝授される。
 ロバート・レッドフォード監督の『リバー・ランズ・スルー・イット(A river runs through it) 』(1992年)は、フライの聖典とされるノーマン・マクリーンの回顧録の映画化だ。
 1926年春、クレイグ・シェーファー演ずる兄がダートマス大を卒業して六年ぶりに帰郷する。ブラッド・ピットが演じる弟は、地元で釣りの記事を書く記者になっている。
 兄は自分が教職に就くことになったシカゴで、大きな新聞社の記者になるように弟に勧める。弟は「一生、モンタナで暮らす」と断る。酒を浴びるほど飲み、かけ事で借金を作り、生活が崩れかけていた弟を、何とか救い出そうとする兄だが、弟がフライを投げる姿を見て、「流れの中の岩の下のことば」を聞き取れるほどに自然に溶け込んでいると感じて、あきらめる。
 父は教会での最後の説教で、弟について語る。「完全に理解できなくても、完全に愛することはできる」。それが家族なんだと。
 まったく興味のなかった人も、この作品を見るとフライを投げたいと感じるだろう。家族の愛と、川と丘の風景が心に染みる作品だった。最近の『モンタナの風に抱かれて』といい、レッドフォードは、ハンサムでスマートなだけではない。いい映画を作る。
 不眠症で月に一度外来を訪れる男性は、奥さんに死に別れて十年、息子家族と同居している。好きだったゴルフも飛距離が落ちてつまらなくなった。寂しさを紛らわそうと十年飼っていた犬も死んだ。
 もう別れのつらさを味わいたくないと、最近は植物と話をするようになった。「草木と心をともにしています」。しみじみとそう語る姿を見て、老境の高みとはこういうものなのだと、教えられた気がしている。





失われた記憶たどる心の旅

朝日新聞朝刊 1999.5.22


  出張中に自動車事故に遭い、頭部外傷で一ヶ月以上も昏睡(こんすい)が続いた三十代の男性が、半年間懸命なリハビリに励み、ようやく仕事に復帰できた。外傷後のけいれん発作のために抗てんかん薬を服用し、記憶力が低下した状態での仕事は過酷を極めたが、持ち前の粘り強さで、それも克服した。
 映画『イングリッシュ・ペイシェント』(1996年)は、第二次大戦中のアフリカ北部の砂漠地帯が舞台だ。歴史家ヘロドトスを愛読する考古学者を演ずるのはレイフ・ファインズ。『シンドラーのリスト』でベランダから無差別にユダヤ人を撃ち殺すナチスの収容所長を演じたあの男優が、今度はドイツのスパイに間違えられる。
 主人公は、操縦していた複葉機が砲撃で墜落し、大やけどで顔も焼けただれる。本人がイギリス人である事に執着したことから、「イギリス人の患者」と命名され、イタリアの南部に運ばれる。周囲からは記憶を喪失したとみられている。
 従軍看護婦の献身的な介助にこたえるように、友人の妻との不倫を核心とする砂漠での出来事が、回想シーンで次第に明らかにされていく。砂漠の幻想的な映像とのバランスが、詩的に昇華された「渇き」を作り出している。砂漠の熱さを感じさせない。すがすがしいような気持ちになる。ロケ地は現在のチュニジアだったようだ。
 数百万人の命を奪った大戦を舞台に、一人の命と人生をこれほど大切にみて、細やかに描いた物語が、かつてあっただろうか。
 昨年封切られた『プライベート・ライアン』では、ノルマンディー上陸作戦を舞台に、一人ひとりの命が奪われていく事実が冷徹に描かれた。こういう描き方が、戦争を繰り返してきた人類の数少ない進歩かも知れない。
 自動車事故に遭った患者は、それから数ヶ月間の記憶をまだ取り戻していない。その欠落に丁寧に付き合っていくのも、精神科医の仕事だ。





血管内「ミクロの手術」現実に

朝日新聞朝刊 1999.5.29


  忙しくて残業が続いた五十代の男性技術者は、家路につくと急にめまいに襲われた。アッと言おうとしたが、言葉が出なくなり、ズキンと頭痛を感じた。寒い中でバスを待ったが手足が思うように動かず、立っていられなくなった。タクシーを止めて自宅に向かうが、ますます様子がおかしい。行く先を救急病院に変え、着いた時には意識を失っていた。
 救急治療室(ER)で処置や頭部CT検査を受け、動脈瘤(りゅう)が破裂しかかっているとわかり、脳外科に入院した。
 近年の脳外科治療の目覚ましい発展の一つに血管内手術がある。大腿動脈からカテーテルを入れ、腹部胸部大動脈、頸(けい)動脈を経て病巣に達し、動脈瘤に金属を入れて瘤を閉じてしまう方法で、無事手術を終えた。医療技術の領域でミクロ化の夢とロマンが現実のものになりつつある。
 1966年公開の映画『ミクロの決死圏』は、治療チームを潜水艇ごと縮小し、脳内の血管を通って病変にたどり着き、レーザーで出血病巣を修復して、無事生還するSFだった。治療のためでも、体外から侵入すれば「異物」だ。排除しようと襲ってくる白血球との闘いが印象的だった。
 87年には、スピルバーグ監督がプロデューサーの一人になって、この作品と007シリーズを合わせてパロディー版にした『インナースペース』が制作された。ウサギの体内で実験をするはずだった潜水艇が、ミクロ化技術の争奪戦に絡むトラブルから、人の体内に入ってしまうドタバタ劇だった。
 動脈瘤の男性は、再発もなく仕事に励んでいるが、忙しいと再発作が心配になる。抗不安薬や睡眠薬を利用しているのが不安になり、相談に訪れた。どんなに画期的な治療法ができても、再発予防の養生を怠ると、心臓や脳の血管は塞栓したり切れたりする。肝心なのは、やはり自己管理であり、早期発見だ。





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