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ストレス手帳

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◆朝日新聞連載エッセイ「ストレス手帳」

病の配偶者、支えられるか

朝日新聞朝刊 1999.6.05


  「亭主元気で留守がよい」とか「粗大ゴミ」と言われたこともあった。妻が健康であることが前提だった。妻が風邪で二、三日寝込んでも家庭は大混乱だ。その妻が心臓病や精神病になったら、夫のストレスは並大抵ではない。
 映画『こわれゆく女』(1975年)は、ジョン・カサヴェテス監督の代表作だ。刑事コロンボのピーター・フォークが工事現場の主任役で、ジーナ・ローランズ演ずる分裂病の妻を支える。
 よれよれのコート姿で、ところ構わず安物の葉巻の灰をまき散らす風さいの上がらぬコロンボが、自分は頭がいいと思っている容疑者に質問を繰り返す。最初は小ばかにして、ゆとりをみせていた容疑者も次第に顔色を失い、コロンボの知恵に脱帽する。
 コロンボはときどき「いやー、うちのかみさんがね、こう言うんですよ」と、奥さんにかこつけて容疑者を攻める。シリーズに奥さんは登場しない。『こわれゆく女』の上映当時、コロンボは大人気だった。観客は「うちのかみさん」に注目した。
 ところが、こちらのピーター・フォークはちっとも格好よくないし、妻の様子は悲惨で深刻だ。妻は家事が出来なくなったり、混乱したりすると職場に電話をする。急いで帰宅するが再発している。往診で注射を打ってもらうが、改善しない。ついにいやがる妻を半年間入院させる。
 退院の日、職場の仲間や親せきがお祝いをしようと家に集まる。しかし、分裂病があまり改善していないことが徐々に明らかになる。気まずい雰囲気の中で一人、また一人と去っていく。やり場のない苦悩を、ピーター・フォークが見事に演じている。『智恵子抄』の高村光太郎のようでもある。
 実際に、心を病む妻を抱えて、やさしく粘り強く支えながら、優れた仕事をしている夫もいる。少し意地悪く言えば、健康な配偶者に恵まれた人たちに薦めたい作品だ。





突然のボケ 家族もぼうぜん

朝日新聞朝刊 1999.6.12


 いつもの野良仕事に出かけた初老の主婦は、夕方になって帰り道がわからなくなった。一晩さまよい警察に保護されたが、夫の名前すら忘れていた。側頭葉内側部から始まった病変が頭頂葉まで広がったためだ。物心ついて半世紀余、次々と獲得してきた知恵が根底から崩れ始めた。
 「物忘れ外来」を受診し、アルツハイマー病と診断された時の、夫のぼうぜんとした表情が忘れられない。
 夫は会社を辞め、看病に専念した。新婚旅行の地を再訪し、日記を付け、フィゾスチグミンとの併用でレシチンを山ほど食べさせ、考えられるケアをすべて行った。が、妻は鏡に映る自分に、他人に向かうように話しかけだした。
 年による脳機能低下をはるかに上回る病的なボケは、六十五歳以上の二十人から二十五人に一人を占める。
 吉目木晴彦の芥川賞作品「寂寥郊野(せきりょうこうや)」を基にした松井久子監督の『ユキエ』(1997年)は、朝鮮戦争のころに看護婦をしていて米国軍人と結婚し、勘当同然で故郷を離れ、ルイジアナ州バトンルージュで四十年暮らすユキエの物語だ。
 二人の息子も自立し、優しい夫と幸せな日々を送っていたある日、ボケが始まる。息子の名前を言えない。コーヒーを入れると言ってミルクを出したり、突然日本語で怒りだしたりする。ふらっと家を出て迷子になる。
 夫は入院や施設入所を拒み、ヘルパーの援助も得ながら在宅ケアを続ける。働きに出る夫に、一人で外出すると迷子になるからと「かぎをかけて」と頼むユキエ役の倍賞美津子は好演だった。
 現在と未来が失われていく時、情動記憶がよみがえり、故郷への執着が強くなる。映画では故郷の山口県萩市の春とバトンルージュの秋が、美しく、対照的に描かれる。
 寂寥たる思いで介護にあたる家族も、倒れないように支えられなくてはいけない。抗痴呆(ちほう)薬の開発も切望される。





企業内セクハラ、日米で違い

朝日新聞朝刊 1999.6.19


 「ブスだね」「太ったね」が禁句なのは常識だが、「最近きれいだね」「どうして髪切ったの」「まだ結婚しないの」と、つい口にする男性はまだ多い。
 セクシュアル・ハラスメントは、性的不快感を与えることで、被害者の受け止め方の問題とみられがちだが、正確には、権力をたてに性的関係を強要することと定義される。新入社員に「不倫しなさい」と言い放つオジサンに至っては「極刑もの」だ。
 最近では、厳しい採用手控えを突破し、ある企業の総合職に迎えられた新入社員が、研修期間中に上司のセクハラに遭い、世界でも最先端と評判の経営戦略とのあまりの落差に、腹を立てて退社したという例まである。
 セクハラを許容する企業の体質が裁判上で問題にされたのは米国の話だが、国内の大学や職場では、横行するセクハラに苦慮している。
 映画『ディスクロージャー』(1994年)は、セクハラ問題で一歩先をいく米国の作品だ。仮想現実のソフトを組み込んだ装置を開発中のマイケル・ダグラスの勤める会社に、元恋人だったデミ・ムーアが上司として着任する。
 魅惑的な上司に迫られるが、男性はすんでのところで思いとどまる。ところが翌日出社すると、男性がセクハラをしたと問題になっている。男性は司法の場に訴え出る。
 企業合併をめぐる陰謀が絡んできたり、パソコンネットの活用や、仮想現実の映像が駆使されたりと、最先端映画の趣も強い。セクハラ訴訟の方は、性的内容に踏み込む証言が次々に飛び出し、耐えながら同席して夫を支える妻の姿も印象的だった。
 女性がセクハラをするほど、雇用の機会均等が浸透していない日本には縁遠いストーリーだ。しかし、少し現実に戻って、女性が被害者のセクハラ訴訟があったとしよう。同席して妻を支える夫の姿が、なかなか像を結ばない。どうしたものだろうか。





異郷の地で働く人々の思い

朝日新聞朝刊 1999.6.26


  ブラジルから来た青年はハイテク工場に勤めていたが、作業中に突然奇声を発し、被害妄想的にもなったため、精神科を受信した。曾祖父(そうそふ)の代に南米に移住し、コーヒー園で成功したが、経済状況の悪化で家族と日本に戻った。
 投薬と休養でだいぶ回復し、治療を続けにブラジルへ帰ったが、一年半後にまた来日し再発した。南米も安住の地ではなくなり、移民に出しながら受け入れに拒否的な日本で暮らさざるを得ない。その思いは計り知れなかった。
 移民の国アメリカは、今でこそ少数民族を尊重しているようだが、「天使の街」ロサンゼルス(LA)も元はメキシコ人の土地だった。映画『ミ・ファミリア』(1995年)は、LAを舞台にしたメキシコからの移民家族の半世紀の物語だ。
 メキシコ革命の後、男は遠い親戚を頼って、一年歩いてLAにたどり着いた。結婚し、サトウキビを育てて生計を営み、六人の子を育てる。
 世界大恐慌で職がないのはメキシコ人のせいだと排斥運動が起き、三人目の子を身ごもっていた妻が買い物先で捕まり、市民権があるのに強制送還されてしまう。生まれた次男を連れて二年後、今度は妻が歩いてLAに戻る。
 次男は成長して警官に射殺されるが、長男は作家に、長女はレストランのマダムに、次女は修道女から人権活動家に、三男は弁護士になる。次男の死を目撃した四男は、成長して、エルサルバドルに強制送還されそうな娘を助けるために結婚し、やがて父としての苦労を知る。
 年老いた父と母は、移民の街、東LAを出て、淡々とサトウキビを育て続ける。どの子も等しく愛していく親の姿が、家族というものを語っていた。地味だが、気持ちが癒(いや)される作品だった。
 残留孤児や在日外国人の病気やストレスを受けとめるべく、医療機関もポルトガル語などの通訳や案内を備え始めた。ささやかな進歩だ。







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