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ストレス手帳

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◆朝日新聞連載エッセイ「ストレス手帳」

世俗の幸福を超越した知恵

朝日新聞朝刊 1999.7.3


  欲望が満たされないと不安になるし、富や愛や健康を失うと憂うつになる。世俗の幸福は、何か一つが欠けただけでもストレスになるのが人間だ。とはいえ、不登校で自室にこもっていた若者が突然、解き放たれたように人生の意味や世界の平和を語り出すと、精神科医はドキリとする。「世界没落体験」の症状が出始めたかと思うからだ。
 昨年秋に邦訳が出た『僧侶(そうりょ)と哲学者』(ジャンフランソワ・ルベル、マチウ・リカール述、新評論刊)は、人生の意味について、チベット仏像の修行に行く息子と哲学者の父との対話だ。 戦争、飢餓、殺りく、人種差別、環境破壊などについて、科学的発展に失望し「精進」を説く息子の個人救済説に対し、父は、社会は制御できると論を展開する。共に性善説だが白熱した議論だ。
 映画『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(1997年)は、妊娠中の妻を残して三九年、ナンガ・パルパットの初「征服」を目指してヒマラヤに向かったオーストラリアの登山家が、まだ見ぬ息子に静かな気持ちで会えるまでの流浪の年月を描いた。監督は『小熊物語』『愛人(ラマン)』のジャンジャック・アノーだ。
 原作者のハインリッヒ・ハラーをブラッド・ピットが演じる。身勝手な行動が目立つ人物だ。隊は登頂に失敗して下山し、英国の捕虜になってインド北部に収容される。ハラーは三年後に脱走し、チベットのラサに潜り込む。
 若き日の十四代ダライ・ラマに接見する機会を得て相談相手になるが、息子より少し年長のダライ・ラマに、世俗を超えた人生の知恵を学ぶ。中国のチベット併合で社会制度の変革と宗教的理想との衝突を見て帰国し、五一年に初めて息子に会う。二人で山頂に立つシーンが美しかった。
 一個人が何かを悟ったからといって、社会的課題が達成されるわけではないが、大人の成長の可能性について教えられる作品だった。





精神病ケア、現状は家族頼み

朝日新聞朝刊 1999.7.10


  「地球の底から生まれて来た。破滅しそうな地球を救うために自分は神になった」。妄想型精神病で長期入院中の五十代の男性患者はこう話す。
 入院する前は、家業の鉄工所を手伝っていたが、父親が亡くなって工場を閉鎖してからは、仕事に戻る気もない。
 「いやそんなことより、人類の未来が心配で仕方がない」と真剣に訴える。妹さんは父の死後、毎週欠かさず面会に来て、一日も早い回復を願っている。お寿司(すし)や季節の和菓子を差し入れ、大好きな缶コーヒーを何十本も持ってくる。地球や人類の救世主ではなく、普通のお兄ちゃんにもどって欲しいと願っている。
 映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんの妹さくらは、お兄ちゃんを見守り支えつづける優しい人だ。自由人、寅さんはひょっこり葛飾柴又のおいちゃんの団子屋に戻って来る。最初は歓迎されるが、隣の工場のタコ社長をおちょくったり、かなわぬ恋に悩んでひと騒ぎ起こしたりする。はれものに触るように扱われて居づらくなり、また旅に出る。さくらだけは「お兄ちゃん、また帰ってきてね」と最後まで見送る。
 結婚して家庭ができると、家族の世話をするだけでも大変だ。この妹さんのように、遠く離れた病院にいる兄を定期的に見舞うのは、だれにでもまねできることではない。
 十五年の歳月が流れたが兄に回復の兆しはない。ちっとも治せない主治医に苦情を言うわけでもなく、次の面会に向けて準備を進めている。
 わが国では精神保健福祉法で、精神病患者の家族に長年、保護監督義務を強いてきた。足元もおぼつかない八十過ぎの母親が面倒をみたり、籍が変わった姉妹にも保護義務を課したりしていた。
 患者にとって家族の優しさは、かけがえのない支えだ。最近になって徐々に法改正が進んではいるが、それでも家族に頼りがちなのが、わが国の精神病ケアの貧困な現状でもある。





仕事と別のよりどころ必要

朝日新聞朝刊 1999.7.17


  常識的な理解の範囲を超える心の働きが、増えているように思えてならない。冬型うつ病は光が、夏型うつ病は温度が原因という大胆な学説を提唱した米国精神保健研究所のトーマス・ウエア博士が十年ぶりに来日し、新しい治療法を巡って話し合う機会があった。趣味の映画に話が移り、コーエン兄弟製作の『ファーゴ』(1996年)が面白いと意見が一致した。
 社長の娘婿でもある自動車ディーラーの営業部長は、使い込みが発覚しそうになり、二人組のチンピラに妻の誘拐を依頼する。シナリオは次々に狂い、殺人事件に発展する。舞台は雪に埋もれた米国ノースダコタ洲ファーゴ。実際の事件を題材にしている。
 テニスのナブラチロワに似た妊娠八ヶ月の女性署長が捜査に乗り出す。三人が殺された雪の中の現場でも、「私の今の仕事は子どもを産むこと」とばかりに、大きなおなかをかかえて、淡々と事件処理を進める。捜査の途中でも、売れない画家である夫の釣り用にミミズを買いにいく。 昼食も夫と一緒に署で取る。それでも犯罪がずさんなので、容疑者周辺に簡単に行き着く。サスペンスではない。スコットランド民謡を思わせる奇妙な音楽とともに、奇妙な味の映画になっている。
 作品の最大の魅力は、全く別世界の人間が事件を通して交差しながらも、違う日常で暮らしているのを描いた点だ。精神病に病んだ大学の同級生の日系男性が、署長になっている姿をテレビで見たからと、筋立てに関係なく登場したりもする。
 知識で「分かる」という常識的な心の構えに挑戦しているような映画だった。署長を演じたフランソワ・マクドーマンドは、本作でアカデミー賞主演女優賞を獲得した。
 一人の人間の中での脈絡のなさは、しばしば問題にされる。しかし本当に自己を保とうとすれば、この署長のように仕事とは別によりどころを持つべきなのかもしれない。





戦争で傷つかぬ心は対象外

朝日新聞朝刊 1999.7.24

 戦争による極限状況を体験した人々の心理を検討し、欧米では、戦争神経症とか砲弾ショックという病名が提唱されていた。現在の外傷後ストレス障害(PTSD)の前駆的な研究だった。
 PTSDは、生死にかかわる恐怖を体験したり目撃した後、心が傷つき、不安、不眠、悪夢などが表れる病態だ。1980年に米国精神医学会が診断統計マニュアルで定義し、診断基準が確立した。
 その二年前、米国ではベトナム戦争を題材に、この障害を扱った映画『ディア・ハンター』が封切られた。ベトナム帰還兵の症例が、研究を推し進めた側面もある。90年には同じ題材で『7月4日に生まれて』が公開された。
 日本では95年の阪神大震災、地下鉄サリン事件、翌年のO(オー)157による集団食中毒の発生などで一気に知られるようになった。
 『ディア・ハンター』は、捕虜になって強制されたロシアンルーレットによる死の恐怖が原因で、密林からサイゴンに戻っても、自分のこめかみに向けて引き金を引き続ける友人を、ロバート・デ・ニーロが救おうとする。『7月4日』は、村民虐殺に巻き込まれ、味方を誤殺し、下半身不随になって帰国したら、反戦運動にさらされたトム・クルーズが徐々に自己を取り戻していく過程を描いている。
 ハリウッドは、大スターに戦争で傷ついた心を演じさせた。邦画では「戦争と人間」や「二十四の瞳(ひとみ)」にそういう場面が含まれてはいるが、正面から戦争で傷付いた心を取り上げた作品は覚えがない。
 戦後処理を棚上げにした心の文化ともかかわるのだろうが、「帝国軍人にノイローゼなどいない」という威勢を取り戻した日本はその後、経済成長の道を突っ走った。ベトナム後の米国だって似たようなものだろう。
 極限状況にもびくともしない強い精神力を基準にしていたのでは、メンタルヘルスも進歩しない。





現実には難しい後遺症脱却

朝日新聞朝刊 1999.7.31


 ロバート・レッドフォード監督・主演の『モンタナの風に抱かれて』(1998年)は、馬と少女の傷ついた心の回復の物語だ。レッドフォードは馬にささやく人、ホース・ウィスパラーと呼ばれる現代のカウボーイを演じる。
 先週に続いて、外傷後ストレス障害(PTSD)を題材にした映画を紹介する。
 ニューヨーク近郊に住む少女が、親友と一緒に雪の中を馬で出かけ、滑って転倒してトレーラーにひかれる。親友を失い、自分は右足を切断。馬も大けがをする。少女は将来を悲観し、登校を拒否して引きこもり、馬は人間を拒絶し、電子音に反応して暴れるようになる。
 雑誌の編集長を務める母親は、娘と馬を数千キロ離れたモンタナの牧場に連れていく。雄大な自然の中で、レッドフォードと馬は、根比べのようにじっくりと、お互いの距離を詰めていく。これを見て、少女も徐々に心を開らく。
 やっかいだったのは、むしろ働き盛りの母親かも知れない。モンタナから携帯電話で仕事の指示を出しながら、落ち着かない様子で組んだ脚をふらふら揺らし続ける。馬と同じ症状だ。 「いつもセカセカしているのは、男社会で生きていく女の知恵よ」と強がる半面、「朝起きても、あるのは不安だけ」と弱音を吐いてみたりもする。そんな母親にまで「ニューヨークに帰りたくない」と言わせてしまうのは、監督兼主演の「癒(いや)しすぎ」の悪乗りだったようだ。
 二十代の男性患者は、止めた車で音楽を聴いているとき、集団に車を横転させられ、暴行も受けて頭や全身に大けがをした。意識が戻るのに三日かかり、不眠と悪夢に悩まされ、無気力状態が続いて仕事も失った。後遺症でも、保険会社は身体の傷しかみてくれない。抜け殻のような自分が情けないと言うが、なかなか抜け出せないでいる。
 心の傷も、深い場合は脳に不可逆的な変化を及ぼし、回復が難しいことがある。







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