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ストレス手帳

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◆朝日新聞連載エッセイ「ストレス手帳」

医療と医学 近くて遠きもの

朝日新聞朝刊 1999.11.6

 「小児マヒをもたらすポリオウイルスの解明に全力を投入していたのに、ワクチンの導入で、原因究明の研究費はゼロにされた。医療とはそういうものだが、医学はそれでいいのか」。もう四半世紀も前だが、高名な分子生物学者が語ってくれたのが忘れられない。実は、1960年の精神薄弱者福祉法制定以降、精神遅滞(知的障害)の医学は衰退の一途だ。精神科医は、様々な精神症状を伴う知的障害の患者に接してきたが、てんかん発作や幻覚の症状は改善できても、知能は上げられない。
 「頭が良くなる薬はないものか」と期待するのは痴ほうや知的障害者の家族だけではない。脳の血流や代謝の改善剤も出回っているが、期待を裏切られることが多い。 
  ダニエル・キース原作の映画『アルジャーノンに花束を』(1968年)は、そんな願いを題材にする。総合IQ七〇で、同僚からばかにされていたチャーリーは、実験用マウス、アルジャーノンで試した手術を受け、大天才に変身していく。本人は満足だが、精神は急激な知性の変化についていけない。不連続の人生に心は大きく揺れる。
 この対極を描いたのが『グッド・ウィル・ハンティング』(97年)だ。不良仲間と付き合うアルバイト暮らしの青年が、天才的知能の持ち主で、大学教授ですら解けない数学の難問をさらりと解いてしまう。しかし、彼は傷つくことへの恐れが強く、本当は自分が何をしたいのかを考えようとせず、知性をもてあそび続ける。精神科医がやっと心を開かせたとき、彼は才能を生かせる企業への就職をやめ、恋人を追いかけて西海岸に旅立つ。
 障害者の当たり前に暮らしたいという願いを保障するのがノーマライゼーションの根本理念だ。しかし、本人や家族の究極の願いは、障害が受容されることなのか、病気を治すことなのか。医師は、福祉やリハビリの前進で、満足していていいわけではない。





苦しい現実、逃げたい時も

朝日新聞朝刊 1999.11.13

 下請けのさらに孫請けの悲哀か、ある町工場が不況の中で倒産した。中年の社長は酒浸りの日々で肝臓を悪くし、意識を失ったりけいれん発作が出たりするようになった。一にも二にも仕事が生きがいだった。ひと仕事終えてからの酒が楽しみで、業界の付き合いと称して、知人とおいしいものを食べにいったり、家庭が壊れない程度にギャンブルもしたりしていたようだ。妻や娘がいたが、ほとんど家庭を忘れた夫だった。
 フランス映画『しあわせはどこに』(1995年)は、中小企業の社長のストレスから始まる話だ。経営するトイレ用品工場は従業員のストライキに悩まされ、家では派手好きで見えっ張りの妻と娘に相手にもされない。古くからの友人と食事をしている最中に、ストレスがたまっていたのか突然、脳卒中で倒れ、入院する。このあたりから人生観が少しずつ変わってくる。
 テレビの尋ね人番組で、田舎にすむ女性が探している二十六年前に失そうした夫が、自分にそっくりだったことから、田舎を訪ねて、そのまま夫役になる。フォアグラづくりの農家でのんびりと暮らし、生き返ったように感じる。フーグ(遁走(とんそう))という病理だ。
 妻と娘と工場は、友人が後を継いで面倒を見てくれている。自分も幸せ。その上、多額の「資産」までわき出してくる。男の身勝手な夢が実現したようなストーリーで、フランスではロングランになった作品だ。
 不況はまず中小零細企業を直撃する。町工場の社長も悲惨だが、気楽だったはずの大企業の社長も、リストラの波に洗われている。映画のように、少しでも気分が明るくなる方法はないものか。
 宇宙と並んで、限りなく未知なる世界が脳だ。二十世紀最後の十年は、米国では「脳の十年」と位置づけられ、心と脳の関係について解明する試みが続いている。欧州や日本でも数年遅れで取り組みが始まってはいるのだが。





復しゅう心にひそむ攻撃性

朝日新聞朝刊 1999.11.20


 最近、リベンジという言葉をよく聞く。報復という意味だ。報復殺人と言えば恐ろしい行為のようだが、原因があって、その仕返しをするという意味では、分かりやすい犯罪だ。いかに常軌を逸した残虐な行為であっても、計画的な犯罪だけに、責任能力がなかったという判決は、例外中の例外のようだ。
 映画『ケープ・フィアー』(1991年)は、何度もこのコラムに登場したロバート・デニーロ主演の鬼気迫る復しゅうものだ。婦女暴行事件で逮捕された男が、弁護士が自分の情状面で有利に働くはずの証拠を提示しなかったとして恨みを持ち、出所後にその弁護士一家に復しゅうをする話だった。男は獄中で体を鍛え、読書を通じて復しゅうのために頭脳も磨く。
 六一年にも同題の作品があり、ロバート・ミッチャムが復しゅう鬼を演じ、グレゴリー・ペックに迫った。日本の敵討ちものを含めて、復しゅうを題材にした映画は多い。
 復しゅうの計画性に対して、ごくまれにしか起きないが、精神障害者の「犯罪」の特徴は、理解できる動機が欠如していることだ。根拠のないしっと心(妄想)に駆られることはあるが、保険金目当てなどなく、地位や名誉にからむ動機とも無縁だ。
 精神病の人の攻撃性は、圧倒的に自己に向かっていて、気分病の人の一五%、精神病の人の一〇%が長い経過中に自殺すると報告されている。
 復しゅうは、自己愛やプライドの傷付きが糸口になることもある。陰謀や策謀でわなにはめられ、報復に出ることもある。
 健常者の復しゅう心にひそむ攻撃性についても、二十一世紀にはメンタルヘルスの課題となってくるに違いない。すでに欧米では、職場におけるいじめが、生産性を著しく減少させる要因として注目されはじめている。



心にも傷残す「最古の商い」

朝日新聞朝刊 1999.11.27


 敗戦後に進駐軍相手の売春婦になり、精神的にぼろぼろに傷ついて発病した患者は、「夫はマッカーサーだ」と誇らしげに語っていた。もちろん夫というのは事実ではない。たぶん人生の「傷」とする思いが強く、その相手が無名の米軍人ではプライドが許さなかったのだろう。
 世間はどう言おうが、とにかく自分を納得させないと生きていけないときがある。
 売春は最古の商いとも言われる。男性優位社会の象徴でもある。「カネで体を売る」という仕事を「卑しい」とする見方は今も変わらない。援助交際が流行語になり、半ば「了解」されているようにみえても、表面から少し下の流れは変わっていない。
 当事者のコンプレックスは、古典的な言い方ではあるが「体は売っても心までは……」という言葉によく出ている。遊郭を舞台にした物語はたいていこれだ。「卑しい仕事」は手段であり、貧しい家族を支えるためだったり、その結果としての犠牲だったりするという思いだ。
 映画『モル・フランダース』(1996年)では、売春婦だったモルが、生き別れた娘に日記を読ませることで、自分の「やむを得ぬ人生」の事情を伝える仕立てになっている。原作は「ロビンソン・クルーソー」のデフォーだ。
 孤児院で育てられ、高級売春館のおかみに拾われたモルは、解剖学を志す医学生から絵のモデルを依頼される。青年の純真な心に打たれ、二人は一緒に暮らし、妊娠中に青年は天然痘でこの世を去る。
 出産後、おかみに見つかり娘と離ればなれにさせられ、新大陸に向かう。途中で船は難破する。モルは死んだおかみに成り代わって新大陸で成功し、九年後に娘を呼び寄せる。主演はロビン・ライト。助演のモーガン・フリーマンが渋く光っていた。
 過去を清算する。映画はかなわぬ夢をかなえてくれる。波乱万丈、「人生にはいろんなことがあった」のである。







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