◆大人の入り口での試行錯誤
中日新聞朝刊 2006.11.03
「ハイヤー・ラーニング」(1995年、アメリカ)
いろんな人と出会い、いろんな勉強をして成長していくのが、大学時代です。しかし、アメリカの大学生活は、日本とはかなり違うようです。「黒人のスピルバーグ」の異名を持つジョン・シングルトン監督の「ハイヤー・ラーニング」は、現代アメリカの病理を大学に凝縮した作品です。
名門大学に入学したメリック、レミー、クリスティの三人を軸に、物語は進みます。
大学では、学生たちは民族ごとに徒党を組み、いさかいが絶えません。学園内には緊急通報装置が設けられ、警備員が巡回しています。
白人学生のパーティーは大騒ぎしても目こぼし。黒人学生のパーティーにはすぐ警備員が飛んでくる。メリックは「いつもおれたちが不当に扱われる」と不満たらたらです。同じ黒人のフィリップ教授は「知こそ力なんだ。差別をなくすのは知識なんだ」と、勉強するように説きます。
でも、グループ間の対抗意識や仲間内での力の誇示から、対立は深まるばかり。エンジニア志望だったレミーは、黒人グループから嘲笑を浴びた屈辱からネオナチのグループに入り「白人が一番優秀だ」と極端な考えを持つようになります。
パーティーで酔ってレイプされそうになったクリスティは、性差別をなくす運動に入り、同性愛の世界にも足を踏み入れかけます。
三人は大人になる入り口でそれぞれに傷つき、それを癒そうと試行錯誤します。その中で銃乱射事件が起きます。「ハイヤー・ラーニング」(高等教育)というタイトルが、重い意味を投げかける作品です。
日本の大学生たちはどうしでしょうか?留学生が十二万人余の現在、人種間の対立は表面化することもなく、平穏です。でも、カルト、悪質商法やギャンブルにはまったり、身勝手な男女交際でトラウマを与えたり…。迷い、苦しみながら自分探しをしているのが若者の特徴でもあるのです。
◆教育の持つ重み再認識
中日新聞朝刊 2006.11.10
「卒業の朝」(2002年、アメリカ)
世界史の「履修漏れ」が明るみに出て、日本の教育界は大混乱。教えていない科目を単位認定するとは、学校ぐるみのカンニングのようなものです。
そこで思い出したのが、マイケル・ホフマン監督の「卒業の朝」で、歴史教師ハンダート(ケビン・クライン)が生徒たちに説いた名言。「知りつつ犯した罪は大きい」「人は、人生でいつか必ず、鏡に映る自分を直視せねばならない時が来る」―何とも象徴的です。
物語は、エリート養成の名門高校の教師を引退したハンダートのもとへ二十五年前の教え子ベルから「コンテストのリターンマッチをしたい」という手紙が届くところから始まります。
上院議員の息子であるベルは、野心的で狡猾(こうかつ)にして自己中心的、それでいて人気のある生徒で、成功のためには手段を選ばないという考えの持ち主です。ハンダートは、彼の人間性を高めようと情熱を注ぎますが、無理解な父親に妨害されます。それでもベルを立ち直らせたいあまり成績に手心を加え、晴れ舞台の「ジュリアス・シーザー・コンテスト」に出場させます。しかし、そこでベルのカンニングが発覚します。教師生活最悪の痛恨事でした。
そのベルが、今や大企業の経営者。戸惑いながら招待に応じたハンダートでしたが、ベルの真の狙いは政界進出の宣伝だったのです。それを知ってショックを受けたハンダートは、かつて自分がベルに手心を加えたことで落選した生徒に、心底から謝罪します。「知りつつ犯した罪」が実は自らの問題であることに気づくのです。
教師とは薄っぺらな知識やテクニックを伝える人ではありません。生徒の全人格的な成長を願って、自ら考える力を醸し出す人です。教育の持つ重み、醍醐味(だいごみ)が、この映画の真骨頂です。ハンダートの名言をかみしめつつ、教育の意味を、世界史を学ぶ大切さを再認識したいものです。
◆「自分らしく」が一番
中日新聞朝刊 2006.11.17
「ミルドレッド」(1996年、アメリカ)
「子どもが私の生きがい」と言う女性がよくいらっしゃいます。自分の育てた子が立派に育つ姿を見るのは、親として無上の幸せでしょう。ただ、「子どもが唯一の生きがい」とか「子どもが立派にならなければ、不幸せ」といった気持ちが陰に隠れているとしたら、ちょっと先行きが懸念されます。生きがいが家族愛だけだと、死別によるうつ病や、空の巣症候群に襲われるリスクがあるからです。
名優ジーナ・ローランズが演じた「ミルドレッド」は、中年期の危機を乗り越える女性の内面を描いた作品です。
しっかり者のミルドレッドは、夫と死別した後、長男イーサンを立派に育て上げ、長女のアンと二人暮らし。でも、子ども扱いされることにいら立ったアンはある日、家を出ていきます。そのころ、向かい側の家に住む女性モニカも、暴力的な夫を追い出してしまいました。でも、六歳の息子JJをかかえて働くのは大変で、昼間だけミルドレッドが世話を買って出ます。
無口で人見知りするJJを、ミルドレッドはわが子のようにかわいがり、本を読み聞かせたり、スポーツの相手をしたり、誕生日のプレゼントをしたりと愛情を注ぎます。モニカに誘われて出かけた酒場で知り合ったトラック運転手の男性にも恋心を覚えたりします。
長男のイーサンからサンフランシスコの新居に招かれ「今の家を処分して、一緒に住もう」と同居を提案されますが「今の生活が気に入っているの。JJは私の親友よ」と拒否。その矢先に、モニカが夫と復縁、再び独りぼっちに舞い戻るミルドレッドでした。
JJとの出会いと別れを通じて、だれかを頼ったり、世話したりすることではなく、自分らしく生きることこそ大切、という思いがミルドレッドの心に芽生えます。思い出のしみこんだ、住み慣れた家を売り払い、娘のアンにも行き先を告げず旅立ちます。アンのはなむけの言葉は「ママ、とってもきれいよ」でした。
◆患者さんは教師である
中日新聞朝刊 2006.11.24
「レナードの朝」(1990年、アメリカ)
医学の真の発展は、患者さんの病態をつぶさにとらえることによってもたらされます。医師は日々患者さんから学んでいます。それを象徴する「レナードの朝」は1969年、ニューヨークの神経疾患の専門病棟で実際に起きた「ひと夏の奇跡」の物語です。
その病院には、脳炎の後遺症で、話もできず、身動きもしない「嗜眠(しみん)状態」の患者さんが多数入院していました。基礎医学から臨床に転じたばかりのセイヤー医師(ロビン・ウィリアムズ)は、
患者さんたちに反射神経が保たれていることを発見し、球投げでリハビリを試みます。その熱意は、回復をあきらめていたスタッフを突き動かします。
セイヤーは、患者さんの硬直が解ければ脳機能が復活するのではと仮説を立て、パーキンソン病の治療薬の投与を思いつきます。その候補に選ばれたのが、十一歳から三十年間嗜眠状態のレナード(ロバート・デ・ニーロ)でした。
効果は劇的でした。長い眠りから目覚めたレナードは、失われた三十年を悲しみつつも、自分の足で歩き、会話できることに興奮し、恋もします。意を強くしたセイヤーは他の患者さんへの投薬を理事会に申請します。その結果、みな次々にベッドから起き上がり、ダンスも楽しめるようになりました。
しかし、レナードの回復はつかの間で、感情まで不安定になります。混乱は他の患者さんにも広がり、セイヤーは実験を試みたことを悩みます。
ある日、激しいけいれんを起こしたレナードは、硬直したまま、「おれを撮影しろ、おれに学べ」とセイヤーに叫びます。結局、すべての患者さんの目覚めは一時的なものでした。でも、人づきあいが苦手だったセイヤーは、患者さんと心を通わせる喜びを知り、研究を続ける決意をします。
難治、不治と言われていた病に回復の可能性をもたらしたのは、治療法の開発をあきらめない医師や治療スタッフ、そして何よりも患者さん自身とそのご家族の協力と恊働の作業にほかなりません。
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