エッセイ 銀幕 こころの旅



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◆中日新聞連載エッセイ「銀幕こころの旅」



強迫性障害

◆完全主義の怖さを知ろう

中日新聞朝刊 2006.07.07


 1998年のアカデミー賞をご記憶でしょうか。主要部門を独占する勢いだった「タイタニック」を押しのけ、主演男優賞・女優賞をダブル受賞したのが「恋愛小説家」のジャック・ニコルソンとヘレン・ハント。映画史に輝く中年カップルです。
 主人公は、恋愛小説の大家でありながら、異性との付き合いはまったくだめ。しかも、強迫性障害による独特の行動パターンの持ち主です。強迫性障害とは不安障害の一種で、完全主義が高じて石橋をたたいて渡れない不適応状態に陥ります。
 この小説家は、他人の触れたものに自分の手が触れると不潔恐怖にとらわれ、何個もせっけんを使って1時間も手を洗ったりします。外出時は戸締まりを何度も確認しないと気が済みません。外食する時は、専用のスプーン、フォーク、ナイフを持参する始末です。おまけに、毒舌家でわがままなため、周囲の人たちから嫌われ、いつも孤独です。そんな彼が、行きつけのレストランのウエートレスに惚(ほ)れ、不器用な中年男の恋物語が進んでいきます。
 恋の行方については、ぜひ作品をご覧になっていただければと思いますが、その際にチェックしていただきたいのは小説家が飲む薬です。この薬は、SSRI(選択的セロトニン再取り込み阻害薬)といい、うつ病や強迫性障害に有効な薬です。かつての精神分析療法などに代わって、不安障害の治療に広く使われています。
 エゴイストだった小説家はウエートレスとの出会いをきっかけに、他人への気遣いができる人間に成長しました。女性のひたむきな優しさに癒やされたのか、お薬が後押ししたのか、愛を獲得する脳内の変化は良く分かりません。
 強迫性障害は、およそ200人に1人が発症すると推定されています。高度情報化社会は、その病理が現れやすい社会です。完全主義の怖さを自覚し、時に大胆に、時に慎重に、状況をわきまえて柔軟に対応できる現代人になりたいものです。





エイズ

◆すべての人が平等

中日新聞朝刊 2006.07.14


 フィラデルフィアという街に、アメリカ人は特別な思いを抱いています。自由、平等、兄弟愛をうたった独立宣言が採択された、アメリカ合衆国の誕生の地だからです。
 トム・ハンクスがエイズを発症した弁護士役を演じた「フィラデルフィア」(1993年)も、平等と尊厳の意味を問いかける名作です。
 一流の弁護士事務所に勤めるアンドリューは、ある日、医師からエイズを宣告されます。事務所はミスをでっちあげ、彼を解雇します。
 アンドリューは不当な差別として訴訟を決意しますが、エイズや同性愛への偏見は強烈で、手伝ってくれる弁護士が見つかりません。アンドリューはかつて法廷で対決したことがある黒人の弁護士ミラー(デンゼル・ワシントン)に依頼します。当初は渋っていたミラーも「愛する法律と正義のために」というアンドリューに心を打たれ、引き受けます。
 この時代、エイズは「死の病」でした。アンドリューも免疫力が低下し、衰弱していきますが、ついに不当解雇の判決を勝ち取ります。テレビのインタビュアーから「同性愛者は特別扱いされるべきか」と問われたミラーが「この街で独立宣言が採択され、平等の権利も保障している。普通の人間の平等ではなく、すべての人間が平等なのだ」と答えるシーンは胸にしみます。
 今もエイズにより、年間三百万人もの人々が亡くなっています。貧困にあえぐアフリカの国々では、多くの患者さんが治療薬を手に入れることもできません。先進国では、死亡率はかなり低下しましたが、根強い偏見、差別が患者さんを苦しめています。わが国では、予防の正しい知識が若い世代に広がらず、いまだに患者、感染者の増加に歯止めがかかりません。
 同性愛の人を白い目で見る医療関係者、予防啓発のために子どもたちにコンドームの知識を教えることを「セックスを助長する」などと反対する教育関係者は、正しい知識と意識を身につけてほしいものです。





自分らしく

◆逆境の中でも誇り高く

中日新聞朝刊 2006.07.21


 健康を害したり、破産したり、愛する人を失ったりした時に、人は何をよりどころに生きるのでしょうか。
 メリル・ストリープ主演の「愛と哀しみの果て」(1985年、アメリカ)は、人の強さについて考えさせられる作品です。
 舞台は二十世紀初頭。資産家の独身女性カレンは、人生の夢をアフリカの大地に求め、狩猟好きの男爵と結婚して、ケニアにやってきました。
 男が威張っていた時代でした。カレンは白人のクラブに入ることも許されません。でも「女には無理だ」と言われるたびにカレンは闘志を燃やし、遊び好きの夫に代わってコーヒー農園の経営にがんばります。現地の黒人たちにも誠意を持って接し、冒険家のデニス(ロバート・レッドフォード)に恋心を抱いたりします。
 最初の悲劇は、梅毒の発症でした。それも夫からの感染です。故郷デンマークに戻って治療を受けたものの、子どもを産めない体になってしまいます。その苦悩を振り払うように、カレンは現地の子どもたちの教育に情熱を燃やします。
 やがて夫と破局。デニスとの熱い愛の日々が始まりますが、自由を愛するデニスは、カレンとの結婚を拒否します。さらに、コーヒー農園の火事で資産は灰になり、信頼していた友人も病死。そして、デニスも飛行機事故で世を去りました。
 何もかも失って故郷に戻ることになったカレンですが、現地民たちの土地を奪わないように、イギリスの総督にひざまずいて懇願します。そんな姿に、クラブの白人男性たちも敬意を込めて、別れの乾杯をします。信念を曲げずに誇り高く生きてきたカレンの姿が、男たちを変えました。  財産、健康、愛などの喪失は、心の危機につながりますが、それに対処できる力は「自分らしく生きてきたかどうか」に大きく左右されます。男女同権でない時代に、自立を目指してひたむきに生きたカレンの姿を現代女性はどう感じられるでしょうか。





自己愛

◆ごう慢な権力者の孤独

中日新聞朝刊 2006.07.28


  映画の歴代ベストテンを選定すると、必ず上位に入るのが「市民ケーン」(1941年、アメリカ)。実話を基に、権力と名声を求めてやまない男の孤独を描いた名作です。二十五歳のオーソン・ウェルズが、脚本、監督、主演の三役をこなしました。
 冒頭は、新聞界に君臨したケーンが息を引き取るシーン。いまわの際に「バラのつぼみ」という言葉を残したことから、その謎を解くために記者たちが関係者を訪ね歩き、彼の生涯が浮き彫りになっていきます。
 ケーンは、貧しい両親の元で育ちました。しかし、思わぬことで母親が大金持ちになり、母親は暴力的な夫から息子を守るために後見人の銀行家にケーンを預け、親子は離ればなれになります。
 大人になり、大金を相続したケーンがまず手がけたのは、つぶれかけた新聞社のオーナーになることでした。「品位よりもスキャンダル」の紙面を打ち出して大成功を収めます。
 才覚だけでなく、ライバル紙の記者を引き抜いたり、意に沿わぬ政治家を攻撃したりと、強引さも人一倍。大統領の姪(めい)と結婚し、政界進出も目指しますが、不倫スキャンダルで夢を絶たれ、家庭も崩壊します。  二度目の妻は、不倫相手だった売れない歌手。妻の夢をかなえようと、オペラハウスを建てて主演させたり、豪華な宮殿を購入して美術品で埋め尽くしたりしますが、結局、夫婦関係は破局に向かいます。「愛しているんだ。出て行かないでくれ。」とすがるケーンに、「困るのはあなたで、私がどうなるかは関係ないんでしょ」と拒絶した妻の言葉はリアルでした。
 ケーンのようにごう慢で、周囲の人間を傷つけてしまう人は、今なら「自己愛性パーソナリティー障害」と診断されそうです。幼少期の愛情不足と関連が深いとされる病理です。
 ケーンが言い残した「バラのつぼみ」はラストシーンで、子ども時代の思い出の品であることが暗示されます。幸福は、権力や富ではかなえられないものがある。現代にもつながるテーマです。





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