エッセイ ちょっとブレイクしませんか


◆エッセイ「ちょっとブレイクしませんか」


菱電工機エンジニアリング株式会社の社内報にて連載しているエッセイです。
年4回の掲載となります。

ぜひご購読ください。(最新更新日 2014年 07月 09日)


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ちょっとブレイクしませんか


第18回 ◆評決(1982年 米国)

イソップ寓話集に「病人と医者」と題する小話がある。


 病人が医者から容態を訊(き)かれ、異常に大汗をかいたと答えると、それは良い按配(あんばい)だと医者は言った。二度目に様子を問われ、悪寒がして震えがとまらないと答えると、それも良い按配だと医者は言う。三度目、やって来て病状を尋ねるので、下痢になったと答えると、それまた良い按配だと言って、医者は帰って行った。 親戚の者が見舞いに来て、加減はと訊くので、言うには「良い按配のお蔭でもう駄目だ」

 飲んだくれの落ちこぼれ弁護士ギャルヴィン(ポール・ニューマン)も、かつては一流大学法科を主席卒業し、権威ある法律事務所に勤務しエリート・コースを歩んでいた。それが先輩の不正事件に捲き込まれ、クビになり妻とも離婚、そのまま転落の一路を進んでいった。よき理解者の老弁護士ミッキーが、ギャルヴィンに、出産で入院した女性が、麻酔処置のミスで植物人間になった医療過誤事件を持ちかけた。原告側証人である大病院の麻酔科の権威、グルーバーに面会し、完全な医師のミスであることを確信したギャルヴィンは、廃人となったデボラの姿を見て、怒りを感じるのだった。訴えられた聖キャサリン病院は、病院の評判が傷つくことを恐れ、ギャルヴィンに示談を申し出たが、ギャルヴィンは断るのである。事件は法廷にもちこまれ、教会側に雇われた被告側弁護士コンキャノンが動き出した。ある夜、ギャルヴィンは、行きつけの酒場で、謎めいた範囲気をもつローラと知り合った。そんなころ、彼の最大の頼みである重要証人のグルーバー医師が、寝返って姿をくらます。窮地に追い込まれた彼の唯一の支えとなったのはローラだった。有利の状況が見出せぬまま開廷の日が来てしまう。事件の焦点は、患者デボラが、なぜ、麻酔マスクの中で嘔吐し窒息状態になり脳障害を生じたかにあった。患者が麻酔処置を受ける1時間以内に食事をした場合ならこの種の事故が起こりうる。しかし当夜のカルテには、患者が食事を取ったのは9時間前と示されていた。ギャルヴィンの最後の望みは、なぜか一切の証言をも拒否している当夜の看護婦ルーニーをくどき落とすことだった。やがてギャルヴィンは、ルーニーが、当夜カルテに食事時間を書き込み2週間前に病院をやめている看護婦ケイトリンをかばっていたことをつきとめた。彼は、ニューヨークにいるケイトリンの居所を探し出しニューヨークに飛んだ。そのころ、コンキャノンの部下としてスパイしていたのがローラであったことを、ミッキーがつきとめた。それを知り愕然とするギャルヴィン。しかし、自分の行動を恥じ、今は真に彼を愛していると告白するローラ。翌日の法廷ではケイトリンが登場し、カルテの数字1を9に書き直したという決定的な証言を発した。




第19回 「ショーシャンクの空に」(米国 1994年)

 イソップ寓話集に「善と悪」と題する小話がある。
善は非力であったので、悪に追いたてられ、天に昇って行った。そしてゼウスに人間の所に留まっているにはどうしたらよいかと尋ねたところ、皆一緒になって人間を訪ねるのではなく、一人一人で行くように、との答であった。このため、悪は人間の近くにいて絶えず襲ってくるが、善は天からゆっくりと降りて来るのだ。
1947年、ショーシャンク刑務所。銀行の若き副頭取、アンディ(ティム・ロビンス)は、妻と間男を殺した罪で刑に服した。誰とも話さなかった彼が1ヶ月後、“調達係 ”のレッド(モーガン・フリーマン)に、鉱物採集の趣味を復活させたいと言い、ハンマーを注文する。49年、アンディは屋根の修理作業に駆り出された時、監視役の刑務主任ハドレーが死んだ弟の遺産相続問題で愚痴をこぼしているのを聞き、解決策を助言する。彼は作業中の仲間たちへのビールを報酬に、必要な書類作成を申し出た。取り引きは成立して囚人たちはビールにありつき、彼らはアンディに一目置くようになる。アンディがレッドに女優リタ・ヘイワースの大判ポスターを注文。ノートン所長はアンディを図書係に回すが、これは看守たちの資産運用や税金対策の書類作成をやらせるためだった。アンディは州議会に図書予算請求の手紙を毎週一通ずつ書き始める。6年目に、ついに200ドルの予算を約束する返事と中古図書が送られてきた。アンディはその中にあったレコード『フィガロの結婚』を放送し、囚人たちを和ませる。63年、図書室の設備は見違えるように充実。所長は、囚人たちの野外奉仕計画を利用して、土建業者たちから手に入れた賄賂をアンディに“資金洗濯”させていた。その後のある定期検査の日。アンディの房は無人だった。マリリン・モンローからラクエル・ウェルチへ代替わりしていたポスターを剥がすと、その壁には深い穴が開いていた。アンディはあのハンマーで19年間かかって穴を堀り、嵐の晩に脱獄に成功したのだ。アンディは所長たちの不正の事実を明るみにさらし、ハドレーは逮捕され、観念した所長は自殺。やがてレッドは仮釈放になるが、外の生活に順応できない。彼はアンディの手紙を読み、意を決して今はメキシコで成功している彼の元を訪ねるのだった。
*************
善は急にはお目にかかれないが、悪には毎日見舞われるという教訓だ。私の最も好きな作品の一つである「ショーシャンクの空に」。冤罪で刑務所送りにされたが、粘り強く刑務官や刑務所長の信頼を集める。入所者の処遇を改善し受刑者に希望が芽生え始める。前人未到の脱獄に成功したアンディは、最後には刑務所長の不正まで暴くのであった。自由を勝ち取るまでの、息の長い闘い。異動や配置換えが不当だと感じることはあっても、自信と希望を持ち続けることが肝心だ。


第20回 「第三の男」(英国 1949年)

 イソップ寓話集に「狼と仔羊」と題する小話がある。「仔羊が川で水を飲んでいるのを狼が見つけ、もっともらしい口実を設けて食べてやろうと思った。そこで川上に立つと、お前は水を濁らせ、俺が飲めなくしている、と仔羊に言いがかりをつけた。仔羊が、ほんの唇の先で飲んでいるだけだし、それでなくても川下にいて上流の水を濁らすことはできない、と言うと、この口実が空を切った狼は『しかしお前は、去年俺の親父の悪態をついたぞ』と云った。一年前はまだ生まれていなかった、と仔羊が言うと、狼の言うには『お前がどんなに言い訳上手でも、俺としては食べないわけにはいかないのだ』」


 第二次大戦後の占領下の維納が舞台だ。最初から最後までアントン・カラスの奏でるチターの音楽がBGMとなっている。無名の作家マーティンス(ジョゼフ・コットン)が、旧友ハリーに呼ばれて、米国から連合軍管理下の維(うぃー)納(ン)にやって来る。到着したその日、ハリーの葬式が行われていた。マーティンスは葬儀の場で英国のMPキャロウェー少佐と連れになり、ハリーが闇屋であったときかされ驚きを隠せない。
 ハリーは生前女優のアンナと恋仲であったが、彼女と知り合ったマーティンスは、彼女に対する恋心も手伝ってハリーの死の真相を探ろうと決意する。ハリーの宿の門衛などに訊ねた結果、彼の死を目撃した男が三人いることをつきとめた。そのうち二人はようやく判ったが、“第三の男”だけはどうしても判明しないまま、マーティンスは何者かに脅かされ、門衛も殺されてしまう。
 一方アンナは偽造旅券の所持でソ連MPに粒致される。それとも知らずに彼女の家から出て来たマーティンスは、街の物蔭に死んだ筈のハリー(オーソン・ウェルズ)をみつけた。マーティンスはハリーと観覧車の上で逢い、彼の兇悪振りを悟って、親友を売るもやむを得ずと決意したが、釈放されたアンナの心境は異なっていた。
しかしハリーが金儲けのために希釈したペニシリンの薬害で苦しむ患者の姿を目のあたりしたマーティンスは結局ハリー逮捕に協力する。囮となって彼をカフェに侍った。現れたハリーは罠と知るや下水道に逃げ込み、拳銃戦が開始され、追いつめられた彼はついにマーティンスの一弾に倒れた。
 かくて改めてこの“第三男”の埋葬が行われた日、マーティンスは墓地でアンナを待ったが、彼女は表情をかたくしたまま彼の前を歩み去って行った。

 主人公役のジョセフ・コットンと悪役のオーソン・ウェルズは「市民ケーン」以来の親友同士でもある。 ところで「第三の男」をご存知の世代、チターの奏でる曲を記憶されている方はもう高齢者だ。男の友情と女心、観覧車、地下水道、占領下の闇市、官僚的なソ連と人道的英国、といった戦後のドサクサの維納ならではの構図だ。
 悪事を働くことが決まっている人の所では正当な弁明も無力であること、惚れた男が悪人であっても女心は揺るぎないことも教えている。




第21回 大逆転(1983年 米国)

 イソップ寓話集に「石を曳き上げた漁師」と題する小話がある。
 漁師たちが地曳網を曳いていた。網が重いのでてっきり大漁だと思い、小躍りして喜んだが、浜に曳きよせてみると、魚は僅かしか見えず、網の中は石や木ばかりだった。漁師たちの落胆はひととおりではなかったが、正反対のことを予期していただけに、一層この結果に腹がたったのだ。しかし、中に一人の老人がいて言うには、「なあ、皆の衆、腹をたてるのは止めよう。悲しみというものは喜びと姉妹であるようじゃ。わしらも先にあれ程喜んだのだから、悲しみに遭うのは当然だったんじゃ」
 若きルイスは商売上手で、ランドルフとモーティマーのデューク兄弟が創設した商品仲買会社の重役をしている。一方、足の不自由な黒人のヴェトナム復員兵が、道ゆく人に小銭をせびっていた。この若者ビリーがクラブの前で、ルイスとぶつかった。ルイスが「泥棒」とわめいたので、ビリーはクラブの中に逃げ込んだ。その様を見ながら、ランドルフは「あの若者は貧しい環境の犠牲者だ。ちゃんとした環境を与えれば、ルイスと同じように会社をうまく経営していくだろう」と弟にしゃべる。2人は環境が人間にどんな影響を与えるかについて賭けをした。
 ビリーはデューク兄弟から「自分たちは私財を投じて、社会的に恵まれぬ人に社会復帰をさせる事業をやっている」と聞かされた。2人は彼に邸宅、銀行口座、年俸8万ドルの職を提供する。一方、クラブでは、ルイスは泥棒の罪でつかまる。婚約者の尽力で釈放されたルイス。そこへ、けばけばしい身なりのどうみても娼婦でしかないオフィーリアが抱きつき、麻薬をねだる。ルイスはオフィーリアからタクシー代を借りる。ビリーは豚肉の取引で数十万ドルを稼ぎ、それから3週間でデューク&デューク社のゴールデン・ボーイとなった。ランドルフの理論の正しさが証明され、モーティマーから賭け金1ドルを受け取る。これをトイレで聞いて真相を知ったビリーは、ルイスの後を追い、自殺を図ったルイスを邸宅に連れてきて、デューク兄弟の陰謀を説明した。
 ルイス、ビリー、オフィーリアは協力して、復讐を計画。デューク兄弟は、オレンジは大豊作という偽情報を信じて、取引所に乗り込み、買いまくれと指令する。ルイスとビリーも取引所に行き、売り一本槍で押しまくり、値が下がると一転して買いまくり、天井を打つと、今度は売りに転じた。と、そこで農務長官の来年のオレンジ収穫量は平年並みという発表があり、オレンジの株価は大暴落しデューク兄弟は破産し、大富豪から一文無しに転落する羽目に。

 盛者必衰の理は、平家物語でも説かれたが、「我々も、好天が続いた後は必ず嵐になる理を弁えて、人生の移ろいやすさを見、いつまでも続く事態に有頂天になってはいけないのだ」ということをこの作品は教えている。構造不況下で、賃金抑制と非正規採用の拡大が遍く進行し未来を暗くしている。




第22回 ライアー・ライアー (1997年 米国)

 イソップ寓話集に「旅人と真実の女神」と題する小話がある。

旅人が荒野で、女がひとりとむのを見た。「一体誰です」と尋ねると「真実です」と答える。「どういう訳で町を捨て、こんな所にお住まいか」と問えば、女神の言うには、「以前には、嘘は少数の人の所にしかなかったが、今は誰の所へ行っても、聞くも語るも嘘だらけですから」

フレッチャー(ジム・キャリー)は、口八丁手八丁の嘘で次々に勝訴するやり手弁護士。美人上司ミランダは、ほかの弁護士がモラル的に断った依頼人の裁判に勝ったら昇進させるという餌を、彼にちらつかせる。その依頼人サマンサは浮気が原因で夫から離婚訴訟を起こされているうえ、浮気をしたら離婚後は一切財産を受け取る資格はない、という結婚前の契約にサインしており、どう見ても勝ち目はない。しかし、フレッチャーは得意の嘘に自信があり、二つ返事で引き受けてしまう。そんな見下げ果てた仕事に精を出す彼は、離婚した元妻オードリーと暮らす最愛の息子マックスの誕生パーティに行く約束をすっぽかす。マックスが「たった1日だけでいい、パパが嘘をつきませんように」と願い事をすると不思議なことに、翌朝からフレッチャーは嘘が全くつけない男になっていた。
自慢の嘘と詭弁を取り上げられたフレッチャーは法廷で苦境に立つ。やり手女検事ダナを相手に悪戦苦闘の連続。もはや万事休すと思われたその時、インスピレーションが閃き、サマンサが夫と結婚した時は年齢を詐称していて、まだ17歳だったことを突き止めた。未成年の結婚前の契約は無効という法律を引き出し、ついに勝訴を獲得。サマンサは莫大な財産を勝ち取った。だが、フレッチャーはこんな形の勝利に初めてむなしさを覚え、裁判長に「法律を曲げた勝利なんか正義じゃない!」と叫び、法廷侮辱罪でブタ箱行きに。だが、こうしている間にもオードリーはマックスを連れて、再婚を迫るジェリーと共にボストンへ向かってしまう。フレッチャーは空港に着いた時、既に機は離陸態勢にあった。だが、彼はタラップ車に乗って猛然と機を追いかけ、ついには飛行機を止めてしまった。その誠実な姿に心打たれたオードリーは、ボストン行きを思いとどまる。担架の上で、フレッチャーはマックスを抱きしめた。1年後、マックスの誕生日を一緒に迎えた3人の姿があった。

少年時代「嘘つきは泥棒の始まり」と戒められるが、大人になると「嘘も方便」と教えられる。二十世紀を震撼させたナチス宣伝相ゲッペルスの「嘘も百回云えば真実になる」という言葉は有名だ。第二次大戦末期の大本営発表に国民の多くは白けたという。アベノミクスの行方はどうであろうか。真実よりも嘘が優先される時には、人間の生活は最悪になることは明らかだ。ジム・キャリーはコメディ俳優で有名だが、うつ病を体験したとも云われている。




第23回 アンジェラの灰(1999年、米英)

 イソップ寓話集に「呑んだくれと女房」と題する小話がある。

呑んだくれの亭主を持つ女がいた。女はその病気を止めさせたい一心で、こんな細工を思いついた。亭主が酔って正体もなく眠りこけ、死人のように何も感じないのを見すまして、肩に担いで共同墓地まで運び行き、置き捨てにして帰って来たのだ。亭主が酔いから覚めた頃を見計らって、墓地に出かけて戸を叩くと、亭主の声で「戸を叩くのは誰だ」と言う。女房が「わしは死人に食物を運んで来た者じゃ」と答えると、「おい、おっさん、食うものは要らぬから飲むものを持って来い。飲め、ではなく食えだなんて、殺生だ」と亭主。女は胸を叩いて言うには、「やれ、情けない。折角の思いつきも水の泡だ。あんたという人は、ちっとも賢くならないばかりか、前よりひどくなった。あんたの病気はとなってしまった」


世界的大恐慌の1930年代。ニューヨークで出会って結婚したマラキ(ロバート・カーライル)とアンジェラは5人の子供をもうけていたが、生活が貧しく、生まれたばかりの娘マーガレットの死を機に、一家で故郷アイルランドのリムリックへ戻る。小さな部屋を借りた彼らの生活は、仕事もないのにプライドだけは高い酒飲みのマラキのせいで一向に楽にならない。アンジェラだけが子供を守るために奔走する。そんな母の姿を見守り続ける長男フランクは力強く成長。学校では作文の才能を認められたりもした。やがて父マラキは英国へ単独出稼ぎに出掛ける。しかし何の連絡も金も届かない。フランクは石炭運びの仕事を始めるが、結膜炎になり断念。そしてX−mas。帰国した父は、無一文のままだった。再び出ていった彼はそのまま蒸発。ついにアパートから追い出された一家はいとこの家に厄介に。フランクは学校をやめ、家を出て、電報配達人として働き始める。いつしか、彼の心に米国への夢が芽生え始める。一生懸命金を貯めたフランクは、ついに米国行きの船に乗り込むのだった。

「飲酒とDVさえなければ良い亭主なのに」と涙ながらに訴える奥さんに出会ったことも何度かある。職場のメンタルヘルスで注目された3A(、、)の一つアルコール依存症は増大する一方だ。「酒は百薬の長」とも言うが、大量飲酒は駄目だ。飲酒以外にも、分かっちゃ要るけど止められないのは、煙草、賭博、インターネット、過食、等々、いずれも強迫的行動という見方もある。悪い行いを長く続けてはいけないことを教えた作品だが、紀元前のイソップ寓話の時代から人間の慣性はあまり進歩していないことを学ぶことも出来る。


第24回 モル・フランダース(1996年、米国)

 イソップ寓話集に「遭難者とアテナ女神」と題する小話がある。

金持ちのアテナイ人が、他の客と乗り合わせて船の旅をしていた。猛烈な嵐になり、船が転覆したので、他の皆は泳いで助かろうとするのに、アテナイ人はひたすらアテナ女神に呼びかけ、助かった暁には夥(おびただ)しい供物を捧げる、と約束するばかり。 一緒に船から放り出された男が一人、すぐ傍で泳いでいて、アテナイ人に向かっていうには「女神に祈るのもよいが、自分の手も動かせ」


人生は航海にも喩えられる。一人の女の波瀾万丈の人生を描いたダニエル・デフォー原作の映画作品「モル・フランダース」は、朝の連ドラより深みがある。18世紀初頭の倫敦。孤児院の反抗児フローラの元にヒブル(モーガン・フリーマン)という男が訪ねてきて彼女を連れ出す。フローラの母親の友人だというヒブルは、ある篤志家の依頼を受けてフローラを探していたのだという。ヒブルはその篤志家の住む新天地米国への旅の道すがら、フローラに母親の半生を語って聞かせるところから映像が展開する。

30年ほど前、処刑寸前の女囚が看守の子を身ごもり出産した。モル・フランダースと名付けられたその子は教会に引き取られた。成長したモルは教会の雰囲気に耐えられず脱走。追っ手に捕まりそうになった彼女を救ったのは慈善家マザワッティ夫人だった。夫人から上流階級の教養とマナーを教わるモル。しかし実の娘たちの嫉妬を買い、モルは屋敷を出ていくことになる。上流階級の男相手の娼館を経営するオールワージー夫人の元に身を寄せたモルは、絶大な権力を持つ彼女に逆らえず娼婦として働くことに。牧師や政治家などのセレブと嫌々ベッドを共にするモルの唯一の心の支えは娼館の用心棒ヒブルだけだった。ある日フィールディングという貧乏な若い画家がモルを指名する。彼はモルに指一本触れず、ひたすら彼女をモデルにスケッチをするだけ。最初は馬鹿にしていたモルだったが、やがて彼に惹かれていく。そんな時、夫人に騙されて金を巻き上げられたことを根に持った牧師らに娼館が襲撃される。重傷を負ったモルはフィールディングの家に逃げ込み、同棲することになった。彼女を両親に紹介したいと言うフィールディング。彼の実家は実は貴族だった。両親は当然結婚を認めないが、ふたりの決意は固かった。モルは妊娠し幸せな日々を送っていたが、フィールディングは天然痘で死んでしまう。

ひとりで出産した娘だけを生きがいに失意の日々を送るモルは、娼館襲撃後のどん底の生活からはい上がり米国に屋敷を購入するまでになったオールワージー夫人と再会。夫人はモルを強引に米国への船旅に同行させる。娘と引き離されたモルは悲嘆に暮れるが、ヒブルが必ず子どもを見つけ出すと約束してくれた。ところが米国を目前にして船は嵐に巻き込まれ沈んでしまう。

長い物語を終えるヒブル。母親が死んだことを悲しむフローラ。しかしそこに現れたのは溺れ死んだオールワージー夫人に成り済まして巨万の富を得たモルだった。再会した親子とヒブルは平穏な日々を送った。

人生は決して希望を絶やさないことだ。それには自力本願が重要だ。もっとも船の遭難では、2014年春の韓国客船沈没事件のように自助努力では解決しない場合もある。


第25回 アラビアのロレンス(1962年 英国)

 イソップ寓話集に「アラブ人と駱駝(らくだ)」と題する小話がある。

アラブ人が駱駝に荷物を積んで、上り坂と下り坂のどちらが好きか、と尋ねたところ、閃(ひら)めきのある駱駝が言うには、「平らな道は塞がっているのですか」


1963年のオスカーを総なめにした名作「アラビアのロレンス」、一生に一度は見ておきたい作品だ。BGMが素晴らしく、息を呑む場面の連続であると同時に砂漠の場面が多くやけに喉が渇いた記憶がある。本作品は岩波新書から「アラビアのロレンス」として出版されている。

1916年、英国陸軍カイロ司令部勤務のロレンス少尉は、特命を受ける。現在トルコに対して反乱を起しつつあるアラブ民族の偵察だった。早速ロレンスは灼熱の砂漠の中を反乱軍の指揮者フェイサル王子の陣営近くで英軍連絡将校ブライトン大佐に逢った。そこでロレンスは近代武力の前に暴露されたアラブ反乱軍の無力さをまざまざと見せつけられた。ブライトン大佐は英軍による指導と訓練を提案したが、ロレンスはゲリラ戦を主張。つまり、トルコ軍の重要地点アカバの反対側にいるアウダを首長とするホウエイタット族と手を結び、背後から敵連絡網などを叩いて撹乱させるという作戦だった。アカバでの戦いは熾烈を極めた。全てが焼き尽され、ロレンスが意識を回復したときにはトルコ兵の姿はなかった。

ロレンスはアカバ攻略を告げるためカイロに向った。カイロに着くと司令官が変りアレンビー将軍になっていた。ロレンスはゲリラ戦の指導者の任務を与えられ、エルサレムに行ったものの、既に英仏両国間にアラブとトルコの土地を二等分する条約が結ばれているのを知り愕然とした。ロレンスのゲリラ部隊は再編成された。部隊がロレンス支持者の集落へ来たとき、すでに集落はトルコ軍の襲撃を受け燃え上り眼前に悲惨な光景が待っていた。怒ったロレンスはトルコ兵を最後の一人までも追って殺害した。種族間の争いが起り、アウダは部下を連れ砂漠へ帰った。その時ロレンスはトルコの病院に忘れられている二百人の重傷者のことに心がおよんだ。彼はアラビア人の服をまとうと病院へ向った。だが、服装で誤解した英国の軍医に、彼こそこの惨状を引き起したアラビア人の張本人だと平手打ちを食わされた。アレンビー将軍の司令部でも、やがてシリアの王となるフェイサルにとっても、ロレンスの存在は不要となった。追放されてはじめて彼の心に寂寥感がしみわたった。結局ロレンスへの論功行賞は、大佐への進級と、英国への帰還船に個室が用意されたことだけだった。軍用車でダマスカスを発ったロレンスは、窓外に顔なじみを探したが、誰一人として彼に気づく者はいなかった。ロレンスを覚えているのは荒漠たる砂漠の広がりだけかも知れなかった。

「火中の栗を拾う」という諺がある。意気に感じて困難な道を敢えて選んでも、何一つ自分の徳にはならずに終わるという喩えだ。荷物を背負った駱駝にとっては上り坂も下り坂も苦難だ。グローバリゼーションは、常に上り坂を要請している。困難な道の選択で技術革新と市場の拡大も進んでいるのは事実だが、平坦な道を選ぶ気持ちも分からないと、いつまで経っても欧米には追いつけないという穿った見方もある。


第26回 ちょっとブレイク  2015年7月号

イソップ寓話と映画の題材のかけあわせもそろそろネタが尽きかけてきた。そろそろ「ちょっとブレイク」も長期断筆と思ったが、アール編集部の皆様に「社員に好評なので是非」とおだてられ、今年度もない知恵を絞ることになった。褒められると悪い気はしない。叱責よりも褒める方が社員の士気を高めるかも知れない。



 イソップ寓話集に「ゼウスと動物と人間」と題する小話がある。

伝えられるところによると、原初、動物が創られた時、ある者は強さ、ある者は速さ、ある者は翼というように、めいめい神の恵みをいただいた。ところが人間は裸のままに置かれたので、「私だけ恩恵に与(あずか)れぬまま放っておかれた」と訴えた。するとゼウスが、「最も大きなものを授かっていながら、その贈物に気がついていないな。お前は理性を手に入れているのだ。それは神々の世界でも人間の世界でも力をもち、強きものよりもなお強く、最も速きものよりもなお速いものなのだ」と答えた。ここに至って人間は贈物を知り、跪拝(きはい)し感謝を述べて立ち去った。

「ピンクパンサー」シリーズで有名なピーター・セラーズという喜劇俳優主演のシリアスな作品が、今回紹介する「チャンス」(1979年 米国)だ。

ワシントンの古いお屋敷の主人が、ある朝突然死んだ。残された中年の庭師チャンス(ピーター・セラーズ)と黒人のメイド。チャンスは、ここ数十年屋敷の外へは一歩も出たことがなく、読み書きもできず、ひたすら庭いじりとテレビを観る楽しみだけで生きてきた男だ。やがて管財人に屋敷を出るように言われたチャンスは、街の喧騒の中に飛び出すことになる。井の中の蛙が社会に初めて出て、聴くもの、見るもの、出合うもの全てが新鮮で、気もそぞろになっていたチャンスは、自動車とぶつかってしまう。高級車の中に乗っていた美しい貴婦人に手当てをするので家に寄って欲しいと言われた。車の中でその貴婦人イブ・ランド(シャーリー・マクレーン)に名を問われ、「庭師(ガーディナー)チャンス」と名のる。なぜかチョンシー・ガーディナーと聞き違えられてしまう。

やがてその車が着いたのは経済界の大立物ベンジャミン・ランドの大邸宅で貴婦人は彼の妻だった。ランドは高齢で健康状態もすぐれなかったが、チャンスの子供のような無垢さに接していると気持ちが安らぐのを感じた。数日後、ランドの見舞いに訪れた大統領は、そこでチャンスと会い、庭の手入れに例えた抽象的で概ね楽観的な意見に耳を傾けた。大統領はさっそくTV放送でチャンスの言葉を引用し、それをきっかけにチョンシー・ガーディナーの名は一躍全米に知れ渡るようになる。それからチャンスのTV出演などの奇妙な生活がはじまるが、彼の本当の正体を知る者はいなかった。やがてランドが大往生を遂げ、その葬儀の際チャンスはイブから愛の告白を受けた。そして大統領の葬送の辞で新大統領候補がチョンシー・ガーディナーであることが明らかにされるのだった。世俗の色、金、名誉とは無縁で、純粋無垢に生きている人間が、誤解というか、新鮮な評価というか、兎にも角にも脚光を浴びるというサクセスストーリーで、まさかこんな話があるはずがないと思いながら、最期まではらはらどきどきしながら見てしまう奇妙な作品だ。


人間は皆、理性的存在として神から名誉を与えられているのに、その名誉に気づかぬばかりか、感覚も理性ももたぬ動物を羨む者もいる、という喩えだ。チャンスchanceには、機会、偶然、運といった意味がある。貴方もチャンス到来に気づいていないだけかも。


第27回 ちょっとブレイク  2015年10月号

 イソップ寓話集に「狼と山羊」と題する小話がある。

山羊が崖の上で草を食(は)んでいるのを狼が見つけたが、側(そば)へ行けないものだから、うっかり落ちたりしないよう下へ降りておいで、と勧めた。ここの草地の方が上等で、青々とよく茂っている、というのである。すると山羊が堪えるには「私をご馳走に呼んでくれるのではない、自分が餌に困っているのだ」

今回紹介する「ディアボロス 悪魔の扉」(1997年 米国)と題する作品はオカルト風で相当に怖い。田舎町で法廷での無敗記録を伸ばし続けていた若手弁護士ケヴィン(キアヌ・リーヴス)は大都会NYの法律事務所長ミルトン(アル・パチーノ)に見込まれ役員待遇で迎え入れられ、おまけに用意された豪壮なマンション、洗練された隣人達。若い夫婦の未来は明るいかに見えた。

事務所の上得意である不動産王アレキサンダーが妻子殺害の容疑で逮捕され、この事件の弁護を任せられたケヴィンは裁判の準備に忙殺されて家に帰れない日が続く。メアリーは慣れない都会暮らしと孤独な日々で次第に心に変調をきたす。妻の介護休暇を取ってはという所長の助言を断ってケヴィンは仕事に没頭する。メアリーを心配してNYにやって来たケヴィンの母親はマンションでミルトンとすれ違った時にふと閃くものがあった。メアリーは奇想天外な悪夢を見るようになり心は確実に病に蝕まれていく。そんな中、同僚弁護士がジョギング中にホームレスに撲殺された。彼は出世できない腹いせに事務所ぐるみの国際的不正を暴露しようとしていたのだ。そのことをケヴィンに伝えようとしたFBIの捜査官も彼の目の前で自動車に轢かれて死ぬ。

ケヴィンは裁判を前にしてアレキサンダーが罪を犯していることを確信し、その苦悩をミルトンに打ち明けるが彼は「ついに黒星か」と言うだけ。虚栄心に惑わされたケヴィンはアレキサンダーの秘書に偽証をさせて勝訴する。悪魔に魂を売った瞬間だった。

その後の展開が鬼気迫る。母親にミルトンがお前の本当の父親なのだと告げられたケヴィンは彼が全ての元凶だと確信し事務所に向かった。果たしてミルトンはケヴィンに世界を征服しようと持ちかける。ケヴィンはミルトンに服従するかに思わせておいて持参した拳銃で自らのこめかみを撃ち抜くのだった。

…気が付くとケヴィンはフロリダ州の裁判所にいた。今までのことは白昼夢だったのだろうか。


大都会ニューヨークを舞台に、悪魔が法曹界の黒幕となり若き弁護士の魂を狙うという訴訟王国米国ならではの作品だ。「狼と山羊」のように、人間の場合でもすべてお見とおしの人の所で悪事を働く時は、企みも役には立たないのだが、甘い誘いには罠がある。建築物の耐震偽装、食材産地詐称など産業界でも悪魔に魂を売る事件が時々世間を賑わしている。くわばらくわばら。


第28回 ちょっとブレイク 2016年1月 インド映画「マッキー」

 イソップ寓話集に「鷲とセンチコガネ」と題する小話がある。

鷲が兎を追っていた。兎は助けてくれる者とてなかったが、ただひとつ、センチコガネを見つけたのを幸い、これに救いを求めた。センチコガネは兎を励まし、鷲が近づいてくるのを見ると、救いを求めて来た者を連れ去ってくれるな、と頼んだ。それなのに鷲は、センチコガネの小さいのを侮(あなど)って、目の前で兎を平らげてしまった。

それ以来、センチコガネは恨みを忘れず、鷲の巣を見張り続けて、鷲が卵を生もうものなら、飛んで行って、卵を落として割ってやった。どこへ行っても追い出されるので、とうとう鷲はゼウスの所へ逃げこんで、安全な巣造りの場所をお願いした。鷲はゼウスの使わし婢(はしため)であったのだ。

ゼウスは自分の懐で卵を生むことを鷲に許したが、それを見ていたセンチコガネ、糞(くそ)団子(だんご)を作るなり飛びたって、ゼウスの懐の真上に来ると、ポトリと落とした。ゼウスは糞を振り払おうと立ち上がったとたん、うっかり卵を落としてしまった、これ以来、センチコガネの出る季節には、鷲は卵を造らないということだ。

今回紹介する映画は「マッキー」(インド 2012年)という奇想天外とも云える作品だ。世界第二位の人口大国インドはハリウッドの4倍の作品数が量産され、ボリウッドの名に象徴されるほど映画が熱い。しかも銀幕には飛び切りの美男美女が次々と登場する。本作はインド映画史上世界興収で1位を記録した。

粗筋は、建設会社経営者スディープは気に入らない奴は殺すという手口で大金を荒稼ぎする強欲な野心家にしてマフィアのドン。一方、お調子者の貧乏青年ジャニは、向かいに住んでいる美人のビンドゥに2年前から片想い中。ジャニはあの手この手でアピールを続けているが、会話すらろくにしてもらえない。しかしビンドゥも、内心ではジャニのことを想っていた。ある日ビンドゥの美しさに魅了されたスディープは、ビンドゥがジャニに惹かれていて自分のことなど目に入ってないことを恨み、ジャニは誘拐され、撲殺されてしまう。 ところが不思議な力によって、死んだジャニの魂はなんと一匹のハエに生まれ変わった。 ハエになったジャニは愛するビンドゥを守るため、憎きスディープに復讐するため、小さな体で人間との戦いに挑む。 果たして、か弱き乙女と小さなハエが、マフィアの親分に勝てるのか。作品の顛末は、DVDをご覧になってのお楽しみだ。


屈辱と復讐を小さな蠅に託した「マッキー」はCGを駆使したリアルな映像で、最後まで引き込まれる。ボリウッドは確実に進化している。イソップ寓話は「踏みつけにされていつか仇うちができないほど無力な者はない」という喩だ。強者が弱者を踏みつける強者もとんだしっぺ返しに会う。まさに「一寸の虫にも五分の魂」。人の上に立つ人間は日頃の言動に心しなくてはいけない。


第29回 ちょっとブレイク 2016年4月 「恋の闇・愛の光」

五百に満たないイソップ寓話と数十万作の映画から幾許かでも関連あるものを見つけるパズルのような作業で、この連載も青色吐息ながら細々と続いている。

 イソップ寓話集に「弁論家デマデス」と題する小話がある。

弁論家デマデスがある時アテナイで演説をしていたが、聴衆が少しも身を入れて聞かないので、ひとつイソップの寓話を語らせてほしいと頼んだ。同意が得られたので語り始めて言うには、「デルテル女神と燕(つばめ)と鰻(うなぎ)が道連れになった。川の辺(ほと)りにさしかかった時、燕は空へ飛び上がり、鰻は水に潜った」デマデスはこれだけ言って黙りこんだ。すると皆が「デルテルはどうなったんだ」と尋ねるので、答えて言うには、「お前たちに腹をたてていなさるのだ。国の問題をほったらかしにして、イソップの寓話なんぞを聞きたがるのだから」

今回紹介する作品は「恋の闇 愛の光」(1995年 米国)だ。時代は十七世紀後半の大英帝国、チャールズ二世が即位し王制が戻った。ルネサンスの影響で文芸や科学が発達し、清教徒革命で押さえ込まれていた歓楽が花開いたが、一方で伝染病が流行した時代でもあった。医師のメリヴェル(ロバート・ダウニー・ジュニア)は暇さえあれば女遊びに明け暮れていた。親友のピアースは彼の医師としての才覚を惜しんでいた。メリヴェルはふとしたことから国王に召しだされ、瀕死の愛犬ルルの治療を任される。メリヴェルは犬の命を救ったことで王の寵愛を受ける。王は彼に愛人のセリアとの結婚を命じて領地を与える。メリヴェルは王の命に反してセリアに恋してしまう。セリアの肖像を描くために王の派遣した画家がそれを見抜いて王に密告、領地を失ったメリヴェルはピアースを頼って精神病院に赴き、暗い単調な病院に音楽やダンスなどのレクリエーションを導入して新風を巻き込む。だがピアースが結核に冒され命を落とす。一方メリヴェルは入院患者のキャサリン(メグ・ライアン)と恋仲になり妊娠させて二人で病院を去る。

黒死病(ペスト)の流行が始まっており、二人は隔離された町に取り残される。キャサリンは娘のマーガレットを帝王切開で産み、そのまま帰らぬ人になった。

メリヴェルは医師の使命に目覚め、黒死病の治療に孤軍奮闘する。宮廷ではセリアが黒死病にかかり、仮面で顔を隠したメリヴェルはセリアが黒死病ではなく妊娠しており、王の愛を信じられずに悩んでいることを見抜き、彼女を励ます。ロンドンの町が猛火に包まれ、メリヴェルはマーガレットを救おうと必死で炎の中を駆け回るが、川に落ちて気を失う。下流に流された彼はかつての自分の所領に流れ着いた。そこへ王が訪れる。王はセリアを救ったこと、そしてメリヴェルが立派な医師に成長したことに免じて再び領地を彼に与えた。メリヴェルは王立病院の院長としてその再建に乗り出すのだった。


新人を迎える春は新鮮だ。本業を等閑にして快楽に走るのは頂けない。この映画の原題はRestoration即ち原点復帰だ。大村智博士は定時制高校で生徒の姿勢に刺激され、学究に目覚め熱帯病治療薬を発見し2億人の生命を救った功績により2015年ノーベル医学生理学賞に輝いた。何歳になっても新鮮さを維持するには原点復帰が大切だ。


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