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Dr.KAORU OKISHIGE's
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沖重 薫先生

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プロフィール

沖重 薫先生
Dr.KAORU OKISHIGE

勤務先・役職

日本赤十字社 横浜市立みなと赤十字病院
心臓病センター長

専門分野

  • 臨床不整脈
  • 心筋症
  • 心臓性突然死

略歴

  • 東京医科大学医学部 卒業
  • 東京女子医科大学麻酔科
  • 東京医科歯科大学循環器内科
  • 米国ハーバード大学心臓内科部門客員研究員
  • 横浜市立みなと赤十字病院心臓病センター長
  • 東京医科歯科大学循環器内科臨床教授

主たる学術認定医・専門医等

  • 日本循環器学会循環器専門医
  • 日本不整脈学会不整脈専門医
  • 日本高血圧学会指導医
  • 日本内科学会認定内科医
  • 米国心臓病学会学士院会員(FACC)
  • 国際不整脈学会学士院会員(FHRS)

患者さんへのメッセージ

多くの不整脈診療は、科学の発達で飛躍的に進歩し、多くの不整脈に対して対処できるようになりました。
例えばがんの診断治療がそれほど進歩していないのに対して、不整脈の診断治療は医学の分野の中でも突出して進歩しています。
学生の頃には想像できなかったような先進医療がいま行われていますし、コンピューターの発達とともに劇的に進歩していますので、不整脈の患者さんには大いに今後の医療の進歩に期待していただきたいと思います。
海外から次々と新しいテクノロジーを含めた診断、治療が日本に入ってこようとしているので、不整脈の治療がハイレベル化し、ますます解決する件数が増えていっています。
とはいえ、しかるべき施設を選ぶことが重要です。
施設選びは難しいですが、症例数が多い施設はスタッフも慣れていて、管理も手馴れているので、 症例数は一つの目安になるかと思います。

ドクターになったきっかけ

私が生まれた後、勤務医から開業医になったという、父親の影響もあったと思います。
長兄が医学部に行っていたので、後継者もいることで、親から私は好きにして良いと言われてはいたのですが。 高校時代は、物理の先生になろうと思っていました。担当の先生がすごくいい先生で物理が大好きになり、当時昭和40年代、熱血先生の青春ドラマがたくさん放映されていたので、高校の先生という仕事への憧れが強かったこともあります。
しかしながら段々、学校の先生の苦労もわかるにしたがって、私には向いていないかもしれないとやめておこうかと思うようになりました。
ただし、医師を引退したら、ボランティアで中学生や高校生にたばこの害とかを教える勉強会をして彼らを啓蒙して、より健康的な人生を送れるようにしてあげたいです。
他には同級生のライバル連中で医学部を目指している人が多かった影響もあります。現役受験時代は、国立大医学部(当時は一期校、二期校時代)を受験しましたが、医学部が全滅でした。
合格したのは国立大学受験日前の受験調整で受けた、とある名門私大の理工学部だけだったので、親も薦めてくれて、入学手続きをしてくれたのですが、結局行きませんでした。
ライバル連中が医学部合格したり、医学部目指して浪人するのを見て、「医学部受験からの逃避」と取られることが嫌だったのでしょう。10代の未熟な考えだったと恥ずかしい限りです。
予備校の特待生の試験に受かり授業料が要らなかっため、親にも迷惑をかけないと思い、浪人して医学部を目指しました。
浪人生活は二度と厭だったため、翌年は、予備校講師が太鼓判を押してくれた一期校を受験せずに、少しレベルを下げた“安全パイ”の一期校を受験しましたが運悪く不合格。これは大変ショックでした。
更には二期校受験日の2日目の早朝に激しい下痢と嘔吐が突然起こり、受験を途中断念という非常に不運な受験でした。
結局、受験した唯一の私大の東京医大が合格でしたが、ある日突然、同大学の事務局長から親に電話があり「息子さんの入試成績は2番でしたので特待生扱いとなるため学費免除です」という連絡がありました。
二期校受験前だったので、絶対に二期校へ合格する意気込みでしたが、実際の受験は前述の通り惨憺たる状況でした。
当時は国立にいけない悔しさは非常に強くありましたが、受験とはつくづく“水もの”である、ということも切実に感じ、親にさほど迷惑をかけずに通えるので、東京医大にお世話になることにしました。
受験では本当に苦労いたしましたが、この苦労と挫折がその後の人格形成に役立ってるのではないかと思っております。

循環器内科を目指したきっかけ

学生時代は、小児科、婦人科、内分泌科、心臓外科に興味があり、志したこともありました。心臓外科に興味を持ったのが、心臓への関心が高まるきっかけとなりました。内科が外科か 迷った結果、一先ず麻酔科で経験を積みながら、考えることにしました。
不整脈に興味を持ち始めたのは、麻酔科で術前回診(手術を受ける人の全身の状態を診る、肝機能、腎機能、心電図等をみて、手術するのに危険がないかを判断する)を担当したときです。
一番困ったのが不整脈で、当時有名な女子医大でしたが、不整脈心電図をきちんと読める人が一人しかいませんでした。心電図は読むのが非常に難しく、麻酔科医でも分からない。
当時から医師も職にあぶれる時代が来るといわれていて、これだけ専門医が少なくて成り手も少ない分野を選べば、その心配もないかなと思ったこともありました。
また、たいしたことはないのですが、母親が不整脈を患っていたことも重なって循環器内科にいこうと決めました。
心臓外科もダイナミックで面白そうでしたが、不整脈に奥深さを感じ、やりがいがありそうなのでやってみようと思いました。
循環器内科は、内科の中でも外科の要素が強く、外科よりも理論的だし、自分との相性が良いように感じました。
もともと外科のスピリットを持っていて、幼いころから、プラモデルを作ったり、図工も得意科目だった手先が器用な自分に合っていると思いました。
カテーテルを使ったり、皮膚を切ったり種々の器材を体内へ埋め込んだりするので、循環器内科には先天的な手先の器用さは必要です。訓練である程度のレベルまではできるようになりますが。

趣味・休日の過ごし方

趣味というより、体力の維持を目的として、フィットネスで毎週鍛錬しています。
重い放射線防護服を着て、手術をするので体力が必要不可欠です。
重いだけではなく、放射線を遮断するくらいなので通気性ゼロで暑く、さらにその上に手術着を着るので、毎回下着まで汗でびっしょりになってしまいます。
暑い、重い、立ちっぱなし、かなりの体力が必要とされます。
体力がないと集中力も途絶えます。集中力が途絶えると医療事故や重篤な合併症を起こしてしまいかねません。
血圧、デジタル信号、放射線の画面、4~5つの流れる画面を見ながら手術するので、集中力と動体視力も必要です。
なので、最低週2~3回1時間以上、海外に居ても必ずフィットネスにいくようにしています。

大変な時とやりがい

大変なのは、部下を育てるために自分が行うのではなく、部下に行わせる時ですね。安全限界ぎりぎりまで行わせますが、私が指示した通りに手術器材を動かし操作できる、とは限らないので、自分が行う以上に気をつけていないといません。
自分で行えばずっと簡単でストレスもないのですが、人を育てる大変さを日々感じています。
大変ですけど、部下を育てなければいけないと思っています。
やりがいは若い10代、20代の患者さんにカテーテルを受けてもらって、「治りましたよ」と話したら、患者さんが手術台の上で泣いて喜んだりした時ですね。
急に脈が速くなって苦しくなり、救急車で運ばれて点滴薬で止めて、を何度も繰り返す。中学生や高校生は、ろくに運動もできず理不尽に運動禁止を命ぜられ、授業を中断せざるを得なかったり、旅行先で苦しくなることもある。そういった苦痛から解放されるという喜びなのでしょう。スポーツも支障なくできるようになります。
何千例のうちの十数例ですが、そんなときはこの分野をやってきてよかったなと思います。

学生時代

勉学にはげみだしたのは、中学生からでしょうか。
高校はいわゆる進学校に進学しました。
小学校は野球部、中学ではブラスバンドに所属して、高校ではギターも覚えました。
生まれ育った福岡は当時チューリップ、井上陽水など、フォークの盛んな土地だったので、学園祭でフォークバンドを組んだりもしてました。
ギターは今もたまにやっています。ギターを買いにいったとき、お店の人から、若い時にギターに親しんで、子育てが終わった50代60代の人が再び、ギターに挑戦するケースも多いという話を伺いました。
都内で公認会計士をやっている高校時代の友人も、良い年をしてなんと目黒でストリートライブをやっていますよ。
浪人中に気晴らしに聞いていたラジオから流れるジャズを聴くようになり、大学でもジャズ研に入り、アルトサックスとフルートも1年間ほどやりました。
兄や親から体力をつけるように言われたり、医師の先輩たちの仕事の大変さをみてやはり身体を鍛えようと野球部に2年生から入りましたが、やはり音楽が好きでしたね。
オフコースが特に好きで、鈴木康博と小田和正、彼らは一流大学出身で、プロとして音楽の道を進む姿にも憧れました。
あと、医学部の野球部のレベルがわかる面白いエピソードがあります。
何十年も一回戦負けするような都立高校と練習試合をしたのですが、僕らは、その時コールド負けしました。
球が速すぎて全く打てなかったのに、僕らのピッチャーは打たれ続けて、レベルが違うのを感じました。
最後には高校生に『ありがとうございました』と心からお礼をいって、高校生からは『がんばってください!』といわれました。
野球の経験者が少ないので私が6年生の時、1年生に入ってきた高校野球の経験者は、即4番打者とヘッドコーチを任されました。
地方に行くと医学部でも当時は弘前大学や信州大学のような非常に強い大学もありますよ。
いままで運動は欠かしたことがありませんし、研修医の時も続けていて、22時頃に帰宅した後に、走っていました。
仕事を終えたある日の深夜にジョッギングをしている時に、警察官から職務質問を受け、身分証明書の提示を求められましたこともありましたね。
当時はまだジョッギングブームではなかったせいもあり、『お医者さんがなぜこんな時間に走っているのですか』と驚かれました。

座右の銘

私が高校生のある日、医者向けの雑誌に書いてあった英文の意味が分かるか、と父が聞いてきました。
『Of nothing, comes nothing.』
英語は得意でしたが、分かりませんでした。
既に他界した父から、『お前はこんな英語もわからないのか』と激しく叱責されたのを今でも覚えています。
その後は大好きな数学と共に英語も一生懸命勉強しました。
何もしなければ何ももたらされない、失敗を恐れてなにもしなければなにも得られない、易きに流れ無難に無難に生きる人生よりは、やることはやって、だめなものは仕方ないけれど、リスクを恐れることなく何かをやる、そういう意味です。
ただ、医者のスタンスとしては、リスクを考えることも必要です。
その分研究に関しては、失敗を恐れずやってみるのを基本理念にしています。
昔、さる医学部の教授選に出馬して負けたことがあって、その時の悔しさから研究はずっと続けています。研究では大学病院には負けたくないという気概からです。
3年間アメリカに留学し38歳で帰国して7年後に教授選に出たのですが、敗れて、その後も50代の頃に地方の教授の話はあったのですが、熟慮した挙句に断りました。私の考えは、気力体力のある40代で教授になりばりばり活躍したかったですし、そのころには子供と別居してまでするほどの教授職への執着心はなくなっていました。
留学していた時の米国ハーバード大学の担当教授は、僕に教授になってほしかったみたいですが。
大学受験の時と言い、いつも小さいころからの負けん気が強いことが作用しているのでしょう。
大学受験の失敗の悔しさ、教授選に敗れた悔しさ、これら多くのことへの悔しいという気持ちが行動のバネになっているのだと思います。

循環器内科を目指している医師へのメッセージ

循環器内科を選ぶ人は、仕事内容が大変な分モチベーションが高い人が多いです。
循環器内科はいつ何時呼ばれるか分かりません。
私も50代前半までは何日かおきにオンコールで呼ばれて、真夜中でも心臓発作の患者さんがきたら緊急手術に対応したりしました。
医学部の卒業試験は全科合格が必須ですが、内科の勉強量の多さは、教科書の厚さを見れば歴然です。
その中でも最も内容が多いのは循環器です。
まず薬の勉強、次に血管治療カテーテル、不整脈のアブレーション、心筋梗塞、狭心症などの血管系、ハイテクな機械、ペースメーカー、埋め込み型AEDなどの高度エレクトロニクスの勉強もしなければなりません。相当なモチベーションの高さが要求される診療科だということは学生時代にわかります。
また、部下のほとんどは運動部出身で体育会系です。
医師の世界では先生とお互い呼び合うのですが、うちは苗字を呼び捨てです。
チームワークで行う仕事なので、統率が必要ですし、内部には厳然としたヒエラルキーがあり、各々の身勝手な行動は許されません。
循環器内科は例えば、カテーテル手術室など1部屋何億円もかけている施設で行う診療をしていて、多くの病院では稼ぎ頭の診療科なので、当然良い治療成績も出さないといけません。
新聞などで各病院の症例数を患者さんはよく見ているので、症例数を増やすために、講演などで開業医の先生や患者さんにアピール(営業)しています。
我々医師もただ待っているだけではなく、営業する時代です。